愛媛の離島記
the Records of Island Visits in Ehime
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魚島 Uosima
魚島は、しまなみ海道の因島・土生港(広島県尾道市)から船で弓削島、高井神島を経て1時間ほど行ったところ、瀬戸内海の中央に位置する周囲6.5kmの島です。残暑の厳しい2006年9月のとある日、私は夜行バスを使って福岡から尾道までやってきて、バスを乗り換えて土生港へ、そして魚島へと上陸しました。ここは、行政区分上は愛媛県上島町に所属しています。そのため、これが私にとって記念すべき四国初訪問となりました。
到着した漁港は島の北側にあり、ここからまずは右手、すなわち西側へと、反時計回りに進んでみます。歩く道すがら、路傍に一定間隔でぽつりぽつりと、小さなお地蔵さんのようなものが置かれているのに気が付きました。それぞれ造花が飾られており、お寺の名前が書かれた小さな表示板もついています。四国本土は88か所の霊場巡りで有名ですが、どうもその88の寺院の名前が記されているらしく、島巡りをすることで、プチお遍路さんになったような気分が味わえる仕掛けのようです。さすがは、四国に所属する島といえるでしょうか。
島の道端に配置された小さなお地蔵さん。プチお遍路さんの気分が楽しめる。
道は島の中央部、山になっているところへ向けて続いており、しばらく上っていくと、やがて石鎚神社という小さな神社へと出ました。割と新しい神社のようで、狛犬も記念碑もぴかぴかしています。それほど滞在時間に余裕があるわけでもないので、まずは島を1回りすることが優先。ちょっと見ただけでここは通り過ぎ、さらに南へと歩いていきます。道はやがて海に出て、そこから左手、すなわち東側へと急カーブしていました。人家も何もなく、ただただ道だけが続いています。途中、重機などを使ってがけの補強工事をしている作業員さん数名とすれ違っただけで、延々と歩いた末に、やがてなかなか立派な役場(上島町の支所)がある漁港へと戻ってきました。どうやら1周に成功したようです。
港のところには、これから祭りでもあるのか、「亀居八幡宮」と大書された10メートルほどもありそうな大きなのぼりが、2本立っていました。ここに書かれている八幡宮の名前は、さっき見てきた神社とは違うようです。新たにまたのぼりを立てる場所を作っていたおじさんがいたので聞いてみると、やはり先ほど山中で立ち寄った石鎚神社とは別のもののようでした。月末にこの八幡宮のお祭りがあって、8つの自治会別にこうやってのぼりを立てるのだそうです。
「ちょいと待ってくれね。これからこの人が八幡宮に行っからよ」
おじさんはこう言い、一緒に作業していた別のおじさんのほうを指しました。どうも、そこまで連れていってくれることになったようです。このおじさん(役場の職員とのこと)は、やがて軽トラックを持ち出してきて、私を助手席に乗せてくれました。さっき私が歩いて上った道を、今度は軽トラックで楽々と上っていきます。石鎚神社のところに出ると、何のことはありません、私が右手に、南へと進んでしまった分かれ道を、左手のほうへと進めば、すぐに亀居八幡宮がありました。
「あんた、蚊に気をつけなよ」
職員さんがと注意してくれます。見ると、職員さんは、首から火のついた蚊取り線香の入ったケースをつり下げています。そういえば、先ほど石鎚神社に立ち寄ったときにも、蚊がぶんぶんいう音がしていましたっけ。
八幡宮は、なかなか立派なものでした。本殿に加え、その向かって左には、小さな舞台が備えられた建物も付設されています。職員さんの話によると、かつて35年ほど前には、魚島には700人ほどの人口があり、テレビも普及していないその時代、祭りのときにはここで芝居が上演され、それを見に島民が総出でここまで上がってきて、心の底から楽しんでいたといいます。現在の島民は260人ほどであるらしく、芝居をやろうにも、満足にできるだけの人数がそろわないとか。かといって旅一座を呼ぶにもお金がかかるので、それもめったにできないといいます。せっかくの舞台も、最近は利用の機会に恵まれないようです。
八幡宮の一角、舞台の隣には、鎌倉時代に作られたという梵字の彫られた花崗岩の石塔もありました。重要文化財に指定されているのだそうです。職員さんは、ここまで説明してくれたあと、
「この近くに、中世の村上水軍を支えた篠塚伊賀守という忠臣のお墓があるでな。周辺は整備されていて、『篠塚さん』て呼ばれるちょっとした公園になっているからよ。行ってみるといいよ」
と言い残し、去っていきました。
残された私は、「篠塚さん」へ続くという小道を見つけて進みます。しかし、本当に小さなけもの道。両側から道へと覆いかぶさっている草木が行く手を阻みます。しかし、障害はそれだけではありません。大きなくもが、道を横切って巣を作っていたのです。三脚を振り回して邪魔になる巣を切り裂き、ちょっと先へ進むと、またくもの巣。また切り裂いて進むと、またくもの巣。また切り裂いて……こんなことを繰り返した揚げ句、何とか「篠塚さん」まで出ました。木立の中の、小ぢんまりとした公園……というより小空間。ひとしきりひっそりとした時を過ごします。
その後、再びくもの巣と格闘して、島を回るメインの道へ戻ります。そこからは、島の高台にある「城山展望台」が近くに見えました。今度はそちらへ行ってみようとします。しかし、「城山」と書かれた入り口の表示板はありますが、道が途中でなくなっているような感じで、どう行けばいいか分かりません。
「や〜めた」
疲れてきましたし、これ以上さまようのは嫌なので、結局パスすることにしました。石鎚神社へ戻って、ここのベンチに寝転がってしばらく休憩することにします。しかし、ここでは先ほどのように、やはり蚊が襲ってきました。プーン、プーンと嫌な音を立てながら、次々に付きまとってきます。ずいぶん追い払ったりたたいたりしましたが、それでも手のところを何か所も刺されてしまいました。
私はくもの巣との闘いには勝利したものの、蚊との闘いには勝てなかったようです。
日振島 Hiburishima
闘牛の街・宇和島の西28kmに浮かぶ日振島。ここは、10世紀に中央権力に反抗して海賊の頭領となった藤原純友が、その活動の根拠地にしていた島です。面積は4平方キロながら、周囲は27.5kmもあり、水平肢節度にはきわめて高いものがあります。このひょろ長い島、地図で見ると、全体がWの字(にさらにVの字がくっついたような)形をしています。子供のころプラネタリウムに足しげく通っていた私はこれを見て、「なんか、カシオペアみたいな形だな」と思いました。
この島には、南東端に「喜路」、中央部に「明海(あこ)」、北西端に「能登」という3つの集落があり、宇和島からの渡船は、順番に1つ1つ立ち寄った後、そのまま宇和島へと戻っていきます。私がここを訪れたのは、梅雨入りの遅れていた2007年の6月でした。福岡を高速バスで午後8時前に出発し、フェリー、鉄道、渡船を乗り継いで、17時間近くかけて午後0時半過ぎに能登へとたどりつきました。島へと来た日は晴れており、途中に連絡船から見た宇和海は、きらきらと美しく光っていました。
島の3集落には、それぞれに民宿が1軒ずつありましたが、私が泊まったのは能登にある民宿「○岡」です。ここは本当に普通の民間住宅で、10畳ほどの純和風の広間を宿泊客に提供するという形のところでした。民宿のおばさんが親切に出してくれた簡単な昼食とコーヒーをいただいた後、私は「明海のほうへ歩いてみます」と言って、出かけることにしました。
「ここから明海まで、歩いたら1時間と40分くらいかねぇ。道はしっかりしているけど、喜路まで行ったりしたら、帰りが大変よ。前に、遅くまでなかなか帰ってこなかったお客さんもいたし。帰りは夕方に船があるから、明海からここまで乗ってくるといいよ」
おばさんは、こうアドバイスしてくれました。
能登から明海まで徒歩1時間40分とは、これは離島にしては相当な距離です。明海には、藤原住友ゆかりの古井戸や、とりで跡の展望台公園もあるはずですし、これを見つつ休憩などしていたら、やはりすぐ夕方になってしまうことでしょう。確かに、喜路まで行っている時間、および体力はなさそうです。明海に着くまでだけでも、かなりしんどい歩きになるかもしれません。多少覚悟して歩き始めました。
日振島は、全般的にこんもりと盛り上がっており、山が直接海に入っていくような地形をしています。平地というものが、ほとんどありません。舗装された、かなり起伏のある道を歩いていく間、畑というものを全く見ませんでした。この島で農業をやるのは厳しいのかな……などと思いつつ、先へ先へと進んでいきます。歩くこと1時間20分あまり、途中2つほどの小さなトンネルを抜け、どうやら目指す明海の集落へとたどりつきました。
明海は島中央部の集落とはいえ、規模としては能登とあまり変わりません。少し外れたところにあった島の小学校や、住宅の間にひっそりと隠れていた藤原純友ゆかりの古井戸を見たあと、とりで跡の展望台公園へと上ります。道の途中には、1976年に放映されたという、藤原純友を主人公にしたNH○の大河ドラマ「風と雲と虹と」の粗末な記念碑も立っていました。展望台公園は、周りの木が切られていて四方が見渡せるようになっていましたが、コンクリート製のテーブルやいすは壊れ方が激しく、大河ドラマによるブームから、年月がたってしまっていることを感じさせました。宇和海と島とを見下ろせるすがすがしい場所でしたが、それまで晴れていた空が、ちょうどここに着いたころに曇ってしまったのがちょっと残念でした。
能登へと戻る船は、明海を午後4時17分の発。展望台公園から明海の渡船待合所まで戻ってくると、切符係のおばさんのほか、これに乗って宇和島まで行くのか、島民らしきおじさんが1人、先に来て座っていました。能登からここまで長々と歩いてくるとき、この島について疑問に思ったことを、船を待つ間にちょっと尋ねてみることにします。
Q:「この島、今の人口はどれくらいなのですか?」
A:「あぁ、もう500人いないね。470人くらいだよ」
Q:「さっきこの目の前の道をもう少し進んだところに、結構新しい小学校がありましたが……」
A:「あぁ、それは最近建て替えたんじゃよ。今、島に小学生は16人だね」
Q:「先ほど藤原純友のとりで跡の公園から海のほうを見下ろしたら、養殖のいけすがたくさん並んでいるのが見えました。どんなものを養殖しているのですか?」
A:「あぁ、主にカンパチ、ハマチ、タイ、それにシマアジってところかな」
Q:「この島、山が直接海に迫っていて、平地があまりありませんね。能登からここまで歩いてくるときにも畑を見ませんでしたし、農業をやるのは難しいのですか?」
A:「いやいや、この島には段々畑がたくさんあるよ。ほら、そこに見える山のところにも、木で隠れているけれど、あの下には段々畑がたくさんあるんじゃよ。麦やイモといったところが主に作っておる。ただ、現在はちょっと縮小気味だよ。なんせ、漁の方が現金になるから」
Q:「麦とイモですか。やはり、ここで米を作るのは難しいのでしょうね?」
A:「いやいや、昔はこの島にも田があったよ。南の喜路と、さっき通ってきたと思うけど、大入キャンプ場のあたりにね。ただ、ずいぶん昔のことになるかな。この島が舞台になったN○Kの大河ドラマをやってたころだし……あのころといえば、島の道はこんな舗装はされていなくて、けもの道同然じゃったね」
Q:「さきほど、その辺で赤い色の海草を広げて干してからまとめているのを見たんですが」
A:「あ、それはテングサと言うんだよ。ほら、それ(窓の外を指す。見てみたら、すぐ目の前だった)。まとめて袋詰めにしてしばらく置いて、来月の下旬あたりに値が付けられて出荷されるんよ」
疑問がかなり解けたところでやがて時間になり、やってきた船に乗り込んで、能登へと戻りました。民宿で地元の魚がたっぷりと使われた夕食を食べ、食後、風に当たりに出た港では、話好きな島のおじさんにつかまって、暗くなるまで話し込んだりしました。
海岸近く、工事中の空き地から望む能登の集落
翌朝起きてみると、6月ももう10日だというのに、梅雨空とはほど遠い、ほとんど雲のないきれいな夏晴れ。空は青く、海はきらめき、島の緑は輝いて、本当に美しい光景でした。
忘れがたい数時間をこの景色の中で過ごした後、きのう来るときにも使った昼過ぎの便に乗って、この島を離れました。天気のいい昼下がり、宇和海はきょうも星のようにきらきらと輝いていて、ファンタジックな美しさを私に見せてくれました。
藤原純友ゆかりの日振島。この島はやはり、宇和海という宇宙に、美しく輝くカシオペアだったのかもしれません。
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