長崎の離島記

the Records of Island Visits in Nagasaki

[BackHome] [前のページへ]


壱岐島 Ikinoshima

 壱岐島は、福岡市の西北西67kmの海上に浮かぶ、周囲167.5kmの島です。
 さらに北方にある対馬ともども、九州と朝鮮(韓)半島を結ぶ海上交通の線上にあり、大陸文化の中継地として古くから重要な役割を担ってきました。日本に関する記述で有名な中国の史書『三国志』の魏書東夷伝倭人条(いわゆる魏志倭人伝)にも、「一大国(一支国)」として登場しています。13世紀の元寇の際には、対馬や鷹島と同様、モンゴル遠征軍の蹂躙により甚大な被害を受けました。
 現在の壱岐は、対馬とともに長崎県に所属していますが、船に関しては九州一の大都市である福岡市(博多港)からの交通が便利であり、こちらとの関係が密接になっています。2008年7月下旬、福岡市在住の私も当然、博多港から高速船に乗り、島南西部にある郷ノ浦港へ上陸しました。
 私はここからすぐ、沖に浮かぶ「三島」の1つである大島に船で渡ることにしていたため、壱岐本島に関しては、この郷ノ浦港の商店街、およびその一角にある塞神社などをうろついただけでした。ただ時はちょうど、郷ノ浦の「山笠」祭りが間近に迫っている時期で、集落のあちこちに立派な「飾り山」が置かれているのが目に付きました。地元の小学生が、その前で集団スケッチなどしています。
 
飾り山 
山笠を控え、壱岐・郷ノ浦港に展示された飾り山。
毎年7月15日に博多祇園山笠が終わった後、移設されてくるのだという
 
 ところで、塞神社の前にあった「桶狭間の戦い」の飾り山、三島フェリー発着所の近くにあった「○ゲゲの鬼太郎」の飾り山、どちらも私は見覚えがあるような気がしました。それもそのはず。後で教えてもらったのですが、この飾り山は、毎年7月15日早朝に行われる博多祇園山笠のフィナーレ「追い山」が終わった後、博多からこちらに移設されて展示されているのだそうです。道理で。
 文化的な伝統行事も、長崎というより福岡の感じがする郷ノ浦地区でした。

 ▼壱岐市観光協会 http://www.ikikankou.com/


大島 Oshima

 大島は、壱岐島の南西沖に浮かぶ「渡瀬三島」の1つで、周囲8kmと3島で最も大きな島です。1999年3月に完成した「珊瑚大橋」によって、南にある長島と結ばれています。
 ここを訪れたのは、2008年7月下旬のことでした。壱岐の郷ノ浦港から船に乗って到着したのですが、郷ノ浦にあった小さな待合所には、渡瀬三島の案内図の類は置いてなかったため、大島に着いてからは、頭に入っている島の大体の形だけを頼りに歩き始めました。
 この島の地形は山がちで、人家もそれほど密集した区域はなく、ぽつぽつと点在している感じです。道は狭く、傾斜地に作られた集落の間を縫うように走っています。標高は少しありますが、視界は木や山にさえぎられることが多く、あまり海を望むことができません。歩いていて、方向感覚がつかみづらい感じがしました。地図もなく、ちょっとばかりの所在なさを伴いつつも、うだるような暑さの中、大島および橋を越えた長島を、一日中歩き回りました。時折、あちこちの木陰や草むらから、放牧されている壱岐牛が、ぬうっとその黒い姿を現したりしました。
 その日は島の神社の近くにある「○嶺荘」という民宿に泊まって、翌朝、島東部にある大島海水浴場へと行き、ちょっとばっかし泳ぐことにしました。
 民宿から歩いてきて、船着場にさしかかったときです。ふと右手を見ると、足元の石積み壁に、古びた観光案内板が無造作にたてかけられているのが目に入りました。島の簡単なイラストと主な見どころが、カラーで描かれています。
 「なんだ、こんなものがあったんじゃないか」
 やれやれ、これに昨日気が付いていれば、もう少し効率的に歩けていたかもしれません。うっすらと泥をかぶり、色も落ちつつある案内板をよく見てみると、島の北西端には「弾薬庫跡」、西部には「砲台跡」と記されている場所があります。
 「おや、これは戦争遺跡かな。知っていれば、きのうちゃんと訪れて写真に撮ったのに」
 どうやら、夕方の船でこの島を離れる前に、この2か所を巡ってみるという「宿題」ができたようです。それはそうと、まずは予定通りに大島海水浴場へと向かいました。たどりついた白い砂浜と青く澄んだ海は、島の子供たちが泳ぐ時間ではなかったらしく、私1人だけのプライベートビーチと化しました。
 1時間ほど泳いだ後、民宿への帰途につきます。時計を見れば午後1時を回ったところ。壱岐に戻る船は4時発。小さな島なので、「宿題」を済ませる時間は、まだ十分にあるでしょう。いったん「小○荘」の部屋に戻ってから、再び出かけます。
 まずは西部の「砲台跡」へ。三島小学校の裏手からしばらく進んだところにある分かれ道を、きのう行った左手・長島方面ではなく、右手へと曲がります。案内図によれば、砲台跡は確かこのへんのはずなのですが、あるのは特にどうといったことのない、海に臨んだただの台地です。拍子抜けしてさらに先に進んでいくと、あれ、きのう見た覚えのある、ちょっと特徴的な形をした田んぼが目の前に現れました。
 「何もなかったように見えたけど、やっぱりさっきのところが砲台跡なのか。弾薬庫跡のある島西北端というのも、ひょっとしてきのうも行ったあの海辺のことかな」
 実際、その通りでした。歩いているうちに、きのうも迷い出た岬へと到着。弾薬庫跡というのは、どうもここのことだったようです。それにしても、何もありません。きのうも訪れましたが、何がどうとも思わなかったところですし。
 ただよく見ると、海岸沿いに一部残っているコンクリート壁は、根元のほうが石積みになっています。これが当時から引き継がれた弾薬庫の痕跡なのかもしれません。
 
弾薬庫跡 
島西北部の弾薬庫があった場所。今では壁だけが残る
 
 このあたりは草地になっていましたが、眺望があまりよくないのがこの島の特徴で、弾薬庫のイメージを残すものは、これ以上発見できませんでした。
 「砲台跡」であるらしい場所まで戻っても、同じことでした。島西部の海沿いにある台地。踏み込んでよく見てみると、ここが砲台のすえつけられていた跡かと思われる場所がありました。ただ、今は夏草が生い茂るだけで、何の標識も立っていません。激しい歴史のひとときは、島時間の中で忘れ去られていっているようです。
 「さっきの弾薬庫跡といい、この砲台跡といい、外来者のために解説板くらい立ててくれればいいのに……」
 架橋事業や、橋近くの海辺で現在行われている養殖場の建設に較べれば、ほんのちょっとした予算でできると思うのですが。そんな思いをよそに、さんさんたる夏の午後の日差しが降り注ぐなか、木陰では黒々とした壱岐牛が数頭、変わらず草をはんでいました。


長島 Nagashima

 長島は、1999年に完成した「珊瑚大橋」で壱岐大島とつながっており、周囲は4.5kmと1回り小さな島です。橋には、中国神話における月世界の美女「嫦娥」の名の付いた道路が通っており、私は2008年7月下旬、大島側からこれを渡って足を踏み入れました。
 長島に入ってすぐのところが集落で、ここを歩いていたら、民家の庭先で呼び止められ、憩ったり作業をしていたりした年配の方々から、この島について少々の知識を得ることができました。壱岐牛の放牧も行われていますが、基本的にこの島はどの家も漁師だそうです。近年、タヌキが増殖してしまい、家禽として飼っているニワトリに被害が出たりしているといいます。
 民家を後にして、漁港、小学校分校と回って、島の西側へと出ました。この島も大島同様、山がちで海岸線が見えないことが多く、小さい割に自分の現在地を見失いがちです。さっきタヌキも出ると聞いたので、暗くなるまでいたら化かされてしまうことでしょう。ただしかし、真夏のむっとする緑の中、出合う動物は放牧されている壱岐牛だけでした。海岸線をうろうろしているものもおり、海に入って海水を飲んでいるようにも見えました。
 
壱岐牛 
浜辺で海水に口をつける放牧壱岐牛
 
 このへんから南側へと道が続いていましたが、頼るべき地図もないため、この道を行けばどこに出るのか、よく分かりません。それでもとりあえず、道なりに進んでいきます。ここらへんは人家がなく、畑であるらしい土地は多かったのですが、たいがいは手入れされずに荒れ放題になっていました。先ほどの民家で聞いてきた話でも、田畑は昔はそれなりにあったけど、今ではほとんど耕作されなくなってしまったということでした。少し心の痛む風景です。途中、ガサゴソッという音がして、草むらから動物が出てきました。タヌキではなく、白いキツネでした。
 やがて、前方に小さな灯台のような建築物が視認できました。ここらへんにも何頭もいた放牧牛をよけながら、そちらへと歩いていきます。その途中で、ふと目に入りました。目の前、灯台の海とは反対側のところに、フェンスに囲われた草ぼうぼうの平地があります。運動用のグラウンドに見えますが、この草の茂り具合などからするに、ほとんど使われていないようです。離島(に限らず日本全国津々浦々)でよく見られる、無駄な公共事業による産物でしょうか。
 灯台への道は途中で舗装が終わっており、草をかきわけ踏み越えして何とか本体にたどりつきました。しかし、繁茂した草木が視界を完全にふさいでおり、何の眺望も得られませんでした。灯台の看板だけを写真に収め、引き返します。
 ここで、少しトイレに行きたい気になってきました。が、現在どこにいるかという確固とした感覚に乏しいので、集落まではどう戻ったらいいのか分かりません。まだ遠い感じもします。ここで、眼下のグラウンドに目をやりますと、その入り口には公衆トイレらしき建造物があるのが目に入りました。
 「あ、ひょっとすると、あそこが使えるかも」
 再び牛をよけて、グラウンドへと下りる道を進み、建物にたどりついて、ちょっと踏み込んでみます。全く使われている形跡のない土ぼこりだらけのトイレ、水は出るようでしたが、扉の奥の便器などを見てみると、水洗ではなく汲み取り型であるようです。この荒れ方と汚さ。とてもではありませんが、使う気にはなりませんでした。
 「やめじゃやめじゃ」
 体質的に腹をこわしやすく、日ごろしばしば腹痛に悩まされる私ですが、幸いきょうはそういう耐え難いものではありませんでした。このまま立ち去ることにします。
 北のほうへ戻り、右手へ進んでいくと、さっきの小学校分校へと出てきました。ここの校門を出たところに、この島唯一の自販機があります。ここで清涼飲料水を買い、道端の木陰でちょうど島のおじいさんおばあさんが数名涼んでいましたので、そこまで行って飲むことにします。暑くて暑くて汗だくだく。炭酸飲料でしたが、一気に飲み干してしまいました。人心地がついたところで、座っていたおじいさんに、さっき灯台近くで見かけたグラウンドの話を振ってみます。
 「ああ、何年か前に作ったグラウンドだね。しかしだね、ふだん海で体使って仕事している漁師たちが、あんなところまでわざわざ行って運動せんよ。全然利用されとらんね。どうせ作るんなら、あんなところでなく、海に作りゃよかったんじゃよ」


鷹島 Takashima

 佐賀県肥前町(当時)・東松浦半島の西に浮かぶ鷹島は、周囲43キロ、面積16平方キロ・メートルという大きな島です。九州本土と結ぶ橋は建設中ですが、連絡船の発着する港が4つもあります。私が2005年の3月に出かけ1泊した旅館も、そのうちの1つ・阿翁浦漁港のところにあり、やまぬ雨をうらみながら眠りについた翌朝起きて港をながめてみると、そこでは島の名前どおりに、猛禽類が群れをなして飛んでいました。
 この島は、日本史上、いや世界史上でも有名な、モンゴル帝国の日本襲来「元寇」が、終焉した地になります。1281年の「弘安の役」において、筑前攻略を試みていた元軍の大船団が停泊し、神風(強力な台風)で大打撃(15万人の軍勢のうち10万以上が海に消えたという)を受けて、撤退を余儀なくされたした場所、それが鷹島の南海上になります。島自体も、元軍に蹂躙され、多くの人命が失われました。
 ほとんど外敵の侵略というものを受けたことのないわが国において、未曾有の国難「元寇」。このまれに見る経験をした島には、今では歴史民俗資料館が建てられ、当時の記憶を伝えています。
 私が資料館を訪れたとき、鷹島町(当時)教委の人だという学芸員のおばさんの好意で、併設されている埋蔵文化財センターへ案内してもらう機会がありました。そこでは、海中から引き揚げられた遺物の保存作業が行われていました。木製の遺物が、塩抜きのために水につけられた状態でいくつも並べられています。また、大きな金属製の水槽のような物体が2台置いてあり、この中には元軍の船のいかりの木製部分が 入っているということでした。何百年間も海に沈んでいた木は、引き揚げられて乾燥してしまうと、縮んで原形をとどめなくなってしまうため、この中で成分を化学物質に置き換えているのだそうです。この作業には10年ほどもかかり、すでに7年ほどこの中に入っているとか。鷹島南海底は、国指定の遺跡ではないので、国からここを維持して研究を進めるためのお金を引き出すのも一苦労だということでした。
 世界史上極めて重大な出来事に関する遺物を扱うこの施設。国防について日々意識の高まる現在の日本において、もう少し楽な運営ができるように予算をつけてあげてもいいような感じです。
 
地蔵様 
路傍のお地蔵様。元寇終焉の地の住民たちを見守る
 
 700年以上前、国防の最前線を担った島。資料館の近くには、この島らしく、護国神社もあります。
 あらしのような戦乱が通り過ぎた島も、現在は静かな時が流れています。高台の公園には元寇の記念碑も立ち、モンゴルのホジルト市とは姉妹都市条約が結ばれ、友好的な交流が進められています。
 血塗られた歴史は、2度と繰り返されることはないのでしょう。


飛島 Tobishima

 鷹島の南部にある殿ノ浦漁港から、松浦市・今福港まで行く途中の海上に浮かぶ飛島。とはいっても、飛島に立ち寄ってくれる便は、1日7往復の中の半分ほどです。周囲5.9km、面積0.5平方キロ・メートルの小さな島、現在の人口は80人程度で、島の生活圏は、漁港周辺と漁港から海沿いに南へ延びる道の周辺だけの感じです。2005年3月に鷹島を訪れて1泊した翌日、この島を訪れる機会がありました。
 殿ノ浦漁港から、離任式で生徒たちに見送られる島の先生たちが同乗した大きな連絡船に乗ること18分、飛島に着きました。乗り込んでくる人は10人ほどいましたが、降りるのは私1人でした。この島は、石炭で栄えた過去があり、1960年には人口2023(!)を誇っていたといいます。島の南側には、その名残のものがあるといいます。鷹島へ戻る船が来るまで、1時間足らず(これを逃すと、さらに3時間20分後)。やや急ぎ足で、私は南下を始めました。
 途中、家は何軒も建っているのですが、目に付いた人は、まき割りのようなことをしていたおばさん1人だけで、やや物寂しい感じです。10分ほど進み、島唯一の宿(ただし5人以上から)に到着。この辺で舗装は終わっているのですがが、道自体はまだ続いていて、もう少し先へ行けます。舗装されてない道の上には、昨日ずいぶんと降った雨のせいで、水たまりがたくさんできていました。これをかわしながら何とか進んでいくと、やがて石炭採掘で出来たボタ山が近くに見えてきました。 炭鉱の栄えた痕跡であるらしいコンクリートの骨組みや、積み出しに使っていたらしい桟橋といった構造物も残っています。ぐずついた天気とあいまって、何か悲しい雰囲気をかもし出していました。
 
飛島 
かつて石炭が積み出された桟橋。たたずまいがわびしい
 
 時間もないし、ひとしきりここに見入った後、退散。来た道をそのまま港の方へと戻っていくと、さっきのまき割りをしていたおばさんが、庭先でなにやら火をおこしてなべをかけているのが目に入りました。
 「こんにちは」
 何となく声を掛け、踏み込ませてもらいます。
 「どうも、こんにちは」
 おばさんも、若干戸惑いながらも応対してくれました。バケツにカキが入っており、聞くと、夕食用にこれからゆでるところだといいます。私は、福岡から観光に来ていること、さっきボタ山を訪ねてきたところだということを、手短に話しました。
 「この島は昔、炭鉱で栄えたけど、今じゃでは100人もおらんからなぁ……」
 華やかなりしころを知っている方なのでしょう。突然庭に入り込んできた見ず知らずのぶしつけな侵入者に、在りし日の記憶をちょっと寂しそうにつぶやいてくれました。
 早春のまだ冷たい空気の中、まきから上がる炎が赤々と風に揺られていました。


黒島 Kuroshima

 黒島は周囲12.5km、佐世保・相浦港沖に浮かぶ九十九島最大の島です。明治時代にフランス人宣教師によって建てられた天主堂・黒島カトリック教会(国指定重要文化財)で有名です。
 2006年4月下旬に訪れたこの島、そこそこに大きく、国重文なども抱えるせいでしょうか、港や住宅、道路、標識板など、なかなか立派で整備の行き届いたように見えました。港に上陸して、20分ほど歩いたところにあった天主堂を見学した後、ほど近いところに予約を入れていた「喜○屋旅館」を見つけ、部屋へ案内してもらいます。島の宿に似つかわしくなく、中はえらく新しくてピカピカしていました。部屋は6畳、布団が十分に用意されており、テレビや畳も新しいものでした。立派な島だとは思いましたが、泊まるところまでこんなこぎれいなところとは。
 一休みしてから外へ出て、島の周囲を歩きにかかります。旅館から天主堂を通ってさらに先へと進み、島の東半分を一周して、北部にある港へ戻ってきました。島の道路はきれいに舗装されており、車も割と通ります。天主堂の近くには、商店も少しありましたし、島というよりはどこかの田舎町といった風情さえしました。道路も海からは少し遠くて高い位置を走っており、あまり海沿いという雰囲気がありません。途中で1か所、下の海岸の岩場へと降りていく道があるので進んでみると、その先には石材屋さんの工場があり、中からは何やら石を切る音が響いていました。そういえば、この島は御影石が特産ということでした。
 さて、港から最初に来た道をたどって旅館へと戻っていき、旅館に近づいたところで、右手に「カトリック共同墓地」という看板があるのに気が付きました。さっき通ったときも見たような気がしましたが、とりあえず無視して旅館のほうへと向かっていったのです。もう夕方。旅館に帰る前に見学しておこうと、墓地へと足を進めます。踏み込んだ墓地には、きれいに整備された、なんとも不思議な風景が広がっていました。
 
キリシタン墓地 
十字架のついた御影石の墓石が並ぶキリシタン墓地
 
 島特産の御影石で作られた立派な墓石。それは「○○家之墓」と刻まれた伝統的な日本式のものなのですが、普通の墓石と大きく異なる点は、その上部にやはり御影石で作られた大きな十字架が付設されていることです。キリシタンの島、宗教の本質である死者をまつる場における、西洋風と和風のミックス。そんな墓石がいくつもいくつも立ち並んでおり、なんともいえない雰囲気をかもし出しています。あすこそこに供えられたカラフルな花々が、それに色を添えていますが、これはほとんどが造花でした。墓石に刻まれている名前を見ると、ペトロだとかアガタだとかの洗礼名もつけられていました。
 さて、旅館に戻って夕食。小型のタイの塩焼きに刺身といった、島でとれたのであろう海の幸が並ぶ食卓には、なにやら変わった形の甲殻類の煮込みも添えられていました。後で知りましたが、これは「うちわエビ」というものだそうです。これまた、なんともいえない不思議な味わい。食事の後にはお風呂。1日歩き回った疲れをいやします。風呂場のドアを開けて中に入ると、そこには一般家庭の3倍ほどもありそうな広めの浴槽。そしてそのふちは、ピカピカした御影石でできていました。


平戸島 Hiradojima

 「平戸城下町武家屋敷庭園湯けむりグルメミステリーローズ殺人事件……」
 「な、なんじゃい、そりゃ? えらく欲張ったな」
 よく晴れた初夏の日の城下町・平戸。同じ車で移動していた地元の園芸業者・M田氏(的山大島出身)、すでに退職して園芸を趣味としているM瀬氏が、突然の私の発言に、あきれたような反応を見せました。
 テレビドラマで、私の母親などが好んで見ているサスペンス・ミステリー劇場。その手のものは大体、「女○○シリーズ」「小京都」「湯けむり」「グルメ」「殺人事件」といった言葉を並べて、タイトルが形成されています。新聞のテレビ案内表で3行ほどに収まる文字数で、世の主婦層(=主たる視聴者)が興味をひかれるような内容にするのが、番組コピー制作者の腕の見せどころなのだそうです。主人公たちが著名な観光地を巡りながら、殺人事件を解決していくというストーリー展開を何度もテレビで見てきましたので、最近私は、少し知られた観光地へ行くと、こういう言葉が無意識に口をついて出るようになってきました。
 ところで、私がこの周囲203.5kmもある大きな島・平戸で一体何をやっているかというと、それこそ「平戸ミステリーローズツアー」なるものに参加しているのです。さかのぼること3か月近く前、私は出かけた先の小値賀島の民宿で、由緒ある城下町・平戸で武家屋敷庭園の保存活動をやっている年配のご夫婦・O曲夫妻と出会いました。そのとき名刺を交換したのが縁となり、このほど私のところに「平戸お庭めぐり」の案内はがきが送られてきたのでした。それには行けなかった私ですが、しばらくたった連休に、平戸の沖に浮かぶ度島を訪れることにして、その帰りがけにO曲邸の庭を見せてもらおうと思ったのです。ところがその日は、平戸で「バラ会」なる活動をしているご夫妻は、平戸の古くからの地割に400年前から伝わり、現在まで息づいているバラの株の調査を行う予定だということでした。関東のほうから専門家も来るのだといいます。そして、よろしければ……ということで、全くの門外漢で俗物のこの私も、そのバラ探索ツアーに飛び入り参加させてもらうことになったのでした。
 
武家屋敷とバラ 
由緒ある武家屋敷の庭で、薄いピンクの花を開かせているバラ
 
 ツアーの他の参加者は、O曲夫妻に、バラの専門家・M巫女史、バラの画家・R郷女史。こちらは、O曲夫妻の車で移動しています。次は○○邸、次は○○寺などと、1つ1つ行く先を打ち合わせながら移動しているのですが、こちらの車が1か所飛ばして先に行ってしまったり、道の途中でバラの株を見つけて止まったりもして、小さなハプニングは続出です。ま、しかしめったに体験できないようなツアーをしている感じです。私は、平戸はほぼ初めてと言ってよく、どこをどう移動しているのか、地理感覚はあまりないのですが、由緒ある城下町とそこに暮らす人々の雰囲気は味わえています。バラについての詳しいことが分からないのは、ま、ご愛嬌でしょうが。
 もっとも、ツアーに参加してバラを見ているうちに、日本人がよく庭に植えているバラは「イングリッシュローズ」という種類のヨーロッパで改良されたものであること、日本本来のバラにも良いものはあり、北欧などで好まれているのだということなど、初歩の知識を教えてもらいました。M巫女史もR郷女史も、バラのあるところなら世界中どこへでも出かけていっているそうです。
 「平戸城下町武家屋敷庭園湯けむりグルメミステリーローズバラバラ殺人事件……」
 「え〜……何ですか、それ」
 観光スポット「三浦按針の館」の庭でバラの株を見ていたとき、O曲夫人にこの言葉を言ったら、やはり面食らった反応が返ってきました。
 「いや、よくテレビでこんなのやっているでしょう。観光地で殺人事件が起こるやつ。シナリオを考えているんですが……」
私が答えます。やはり一般的な観光名所に来てしまうと、ついテレビのサスペンス・ミステリー劇場を連想して、自然とこういう言葉が口をついて出てしまうようです。
 テレビのサスペンス・ミステリー劇場はたいがい、クライマックスに犯人ががけに追い詰められて、真相を告白して事件解決となります。このミステリーツアーが最後に訪れた場所は、がけとまでは言えませんが、海沿いの坂を下っていったところにある「中の浦ソテツ群落」でした。自生地の北限といわれる場所だそうで、ここはバラとは関係ありませんでしたが。午前10時ごろに始めたこのツアー、昼食をはさんで、午後4時前に無事にお開きとなりました。
 昼食をとったレストランでは、せっかくのツアーということで、7人そろっての記念撮影も行いました。こういうとき、旅には常に携帯している私の三脚が、非常に役に立ちます。
 ツアーを共にした皆さんと別れ、平戸を後にして福岡に帰ってから、度島と平戸で撮った写真を、パソコンに取り込みます。ツアーの7人がそろった記念写真を、アップにしてモニターに表示してみました。7人とも、にこやかな表情を浮かべています。ただしかし、このときにふと思ってしまいました。
 「テレビのサスペンス・ミステリー劇場では、『殺人事件』の犯人は、だいたいこの中にいるんだよな……」

 ▼平戸まるごと観光ガイド http://www.city.hirado.nagasaki.jp/sight/


生月島 Ikitsukijima

 長崎は平戸の北西に位置する島・生月。周囲は28.6km、隠れキリシタンの歴史が有名です。1991年に平戸と結ぶ生月大橋が完成し、現在は九州本土から平戸大橋を経て、車で直接乗り入れることもできます。
 その生月島へ行ったのは、1998年の夏、8月6日のことです。長崎は松浦に住んでいた友人(K之園、通称のそ)のところに遊びにいったついでに、友人一家(奥さんと当時生後5か月の娘さん)と訪れました。
 その日は、堅気な会社(九○電力)に勤めている友人も、客人たる私のためにわざわざ休暇を取ってくれ、愛車を出してくれました。
 午前中は佐世保方面へ。弓張岳展望台や遊覧船で巡る九十九島といった、メジャーな観光スポットを訪れた後、午後になってから平戸方面へ向かいました。
 「平戸の方はどこへ行くか、Ar40さん研究してきたんでしょう?」
 腕に赤ちゃんを抱えた友人の奥さんが聞いてきます。
 「いや、それが……。私としては、生月島に心ひかれているので、どちらかというと、生月島まで足を延ばしたいのですが……」
 「そうしよう」
 人のいい友人は、快く目的地を生月島にしてくれました。そして快く、生月大橋の片道700円の料金(普通車)を払ってくれました。
 九州本土と、2つの橋によって地続きになっているとはいえ、島に入ると、いつものことながら本土とは雰囲気が一変します。
某島マニアも言っているように、ゆったりとした時間が流れ、のどかな情景が展開されるのです。そんな風景に突入していくらもしないうち、最初の観光スポット、生月の大観音様にたどり着きました。車から降りて、島の空気に浸りながら、大観音様に手を合わせます。あの人の健康と幸せを祈りながら。
 そこから島の北端へと、一気に車を走らせます(といっても、10キロほどですが)。北端の一歩手前の駐車場に車を止め、みんな降りて、北端の断崖上にある大碆鼻の灯台を目指して、丘を登っていく道を歩き始めました。
 時刻は午後3時すぎ。夏の真っ昼間。天気は快晴。さんさんと陽光が降り注ぐ、究極に暑い日でした。友人も、赤児を抱えたその奥さんも、そして暑いのは大好きなはずのこの私も、汗だくになりながら坂道を進みました。たどり着いた丘の頂上の灯台。もともと標高が高いところに立っているせいでしょう、私がかつて行った角島(山口県)のものとは比べものにならないくらい、小ぶりでかわいらしいものでした。
 
生月島灯台 
生月島灯台へと上る道で、子供をあやすのその奥さん
 
頂上から、海側の方をのぞき込みます。本当に断崖絶壁。100メートル近くあるのではないかと思わせる断崖の下に、美しい青い海が砕けていました。
 「ねー、なっちゃん(赤ちゃんの名前)。海が本当に青いねーぇ。海ってどうして青い色してるのかねぇー」
 吹きつける海風に、赤ん坊をあやす友人の奥さんの声が散っていきました。


度島 Takushima

 その日は晴れていましたが、とんでもなく風の強い初夏の日でした。
 平戸島の北に浮かぶ周囲12kmの島・度島。この島に渡るフェリーは通常、平戸島の平戸港を出て、度島にある3集落のうち飯盛、本村という2つに寄港するのですが、風の強い日は平戸島東岸の平戸港からではなく、西岸のウスカ港から出るようになります。私が訪れた日もウスカからの出航となり、白波が立つ海を揺れながら横切っていったフェリーは、飯盛港には寄ることなく、より近い本村港へ直航して停泊しました。私がこの日泊まる民宿は、飯盛のほうにある「○くみ」というところにしておきましたので、そちらまで歩かなければなりません。ともあれ、本村へ上陸します。
 900を超える人が住むこの島ですが、正午前のこの本村の集落には、ほとんど人影がありません。フェリーから降りた人たちを除けば、わずかに1台、軽自動車が通っていったのを見ただけのような気がします。理由は分かっています。民宿「ふ○み」に予約の電話を入れたとき、ちょうどこの日は島の小中学校の運動会なので、民宿のおかみさんたちもこの時間には家を空けているという話だったからです。きっと、島人こぞって子供たちの応援に行っているのでしょう。ただ、この風の強さでは、運動会がどうなっているのか、少し心配です。
 本村からから右手へと歩いていけば2、3km先、湯牟田の集落を越えたところに飯盛の集落があるのですが、せっかくですから反対側へ、島の「背中」の部分をぐるりと大回りして、飯盛に行きましょう。強風の中、私は左手へと進路を取りました。
 海沿いの一周道路は、それほどアップダウンもなく、きれいに舗装されていて、非常に歩きやすい道です。目に付いた田んぼの写真など撮りつつ、島の「背中」である北側へ回るとそこからは、この島のさらに北にある的山大島へ向かうフェリーが、荒れる海面を突っ切って進んでいくのが見えました。途中、道路から海辺のほうへ降りていく小道があり、そちらへ行くとなにやらいわくありげな小さな観音堂が建っていたりもしました。この季節、緑に生い茂る草むらの中には、ところどころ野アザミが紫の花をつけており、それが小さなアクセントになっていました。
 飯盛の集落には、漁港の目の前に高さ103メートルの飯盛山というきれいな円錐形をした山が立っており、ランドマークになっています(この山の一帯は、一応「丸島」という別の島扱いらしいのですが)。歩いているうちに、どうやらこの山が見えてきました。あそこまで歩けば飯盛。もうすぐです。やがて島の東南端、灯台が建っているあたりの草地へと出ました。草の上に横たわって、暖かな初夏の海風に吹かれてみるのですが、50メートルほど先の波打ち際で白く砕けている波のしぶきが、はるばるこちらまで飛んできて顔面に当たるのを感じてしまい、飛び起きて退避せざるをえませんでした。
  
飯盛山 
飯盛集落の目の前にそびえる丸島・飯盛山。きれいな円錐形をしている
 
 道草をしながらゆっくり歩いてきましたが、午後3時半を回ったころ、どうやら飯盛の集落へとたどりつきました。集落に入ったところで、体操着の小学生数人がすれ違っていきました。運動会が終わったようです。目指す民宿「ふく○」は、飯盛漁港の前にありました。敷地のほうへ入っていくと、10歳くらいの男の子といた40代くらいのおかみさんが、私に気づいて言いました。
 「あ、ひょっとしてあなたが福岡のA水さんですかね? きょうは強風で、どうなさったかな、いらっしゃらないな……と思っていましたばってん、お宅まで電話かけてみたんですけど、留守番電話でよう答えられんかったんですよ。とにかくどうぞ」
 「あ、いえいえ。昼の船で着いたのですが、強風で本村へ直航になって、それから島を一周して、今ここに着いたところです」
 ともあれ、無事に到着しました。広々とした客室へと案内されます。おかみさんが、お茶を持ってきてくれました。気立てのよさそうな人。民宿の客はそう頻繁に来るものではないらしく、また珍しいタイプの客人が来たということで、私に興味を持ったような感じでした。いろいろと話をして、この島について教えてもらいます。人口は900余りですが、小中学校の児童・生徒は100人余りもいるといいます。過疎化が激しい日本の離島には珍しく、ここは子供たちの活力にあふれた島のようです。おかみさんの話し方、語尾に北部九州の方言である「ばってん」が常につくのが印象的でした。
 部屋で一休みした後、きょうはまだ時間がありますので、もう少し外を歩いてみることにします。まずは、民宿の目の前に立っている飯盛山からでしょう。荷物の一部を部屋に置き、カメラバッグと三脚だけを提げて、外へ出ました。民宿から道路へ出ようとしたそのときです。
 「よろしければ、小さなガイドはいりませんか?」
 後ろから、おかみさんの声がかかりました。傍らには、さっきの男の子。この宿の次男だと聞いています。人見知りするのか、ちょっと控えめな様子です。
 「えぇ、まぁ……」
 私は何となく応諾してしまい、子供さんを連れての(連れられての)山登りという、思わぬ展開になりました。道路から漁港沿いにもう少し歩みを進めたところで、自転車に乗った少年が、私に追いついてきました。やはりシャイなのか、無言でペダルをこいでいきます。やがて着いた山の入り口には鳥居が建っていましたが、少年はその手前に自転車を置き、私を先導して登山道を上り始めました。
 登っていく間も、あまり言葉を交わしません。どうやって話すきっかけを作ろうかと考えていましたが、やはりここは、私が手にしているカメラ機材を媒介にするのがいいかと思いつきました。男の子なら、機械の類には興味があるでしょう。そう高くもない山を9割方登ったところに、木々の間から西側の海が見える場所がありました。私はここで写真を少し撮ったあと、少年に私の愛機・キヤ○ン「E○S-kiss Digital X」を手渡して、簡単な使い方を教えました。渡されたカメラを、少年はおぼつかない手つきで構え、シャッターを押します。構図のバランスは良くないものの、はるか沖に見える発電の風車がショットに収まりました。早速、モニターで自分の撮ったものを確認させてあげます。デジタルカメラの便利なところです。少年は興味を引かれたのか、じっとのぞき込んでいました。
 「そうだ!」
 少年ははじかれたように、カメラを手に登山道へ戻って、もうすぐそこにあった頂上へと駆け上がりました。そこには、なにやらしめ縄をした小さな石のほこらがあります。少年はほこらに接近して、また1枚シャッターを切りました。今度は被写体がアップになった、なかなかいい感じで写りました。
 この山頂には、東側の海も見渡せる場所もあります。今度はそちらへと行き、私はカメラの標準ズームレンズを望遠レンズに付け替えて、少年に説明しました。
 「これは望遠レンズといって、遠くにあるものを大きく写すことができるものだよ。のぞいてごらん」
 「知ってる。見たことある。○○君のお父さんが、こういうやつ持っていた」
 そういえば、きょうは運動会でしたか。級友の保護者にも、カメラを携えて応援に来た人がきっといたことでしょう。少年はズームで東側に見える小島の灯台をアップにして、シャッターを切りました。少しカメラに興味を持ったようです。それと同時に、少し私にもなじんでくれたようです。
 山を下りたところで、少年とは別れました。私はさらに本村まで歩きます。30分足らずで、歩き始めたフェリー乗り場に到着。どうやらこれで、度島を一周したことになります。民宿へ戻ろうと飯盛のほうへ少し歩いたところ、道沿いに畑があり、年配の女性が農作業をしていました。路傍から若い女性が見守りながら、なにやら話しかけています。2人が近づいてきた私に気づき、珍しい外来者を歓迎して、話が始まりました。この2人は、嫁姑の関係だそうです。島の男たちは船乗りが多く、1度仕事に出かけると2か月くらい帰ってこないらしいので、いつもは嫁姑で生活している家が多いということでした。私はきょうは飯盛の「ふ○み」に泊まるということを告げ、島を巡っている間に撮ってきた写真を、カメラのモニターで2人に見せます。
 「あ、これコータ○ー君だね」
 山頂にいるときに写しておいたさっきの民宿の次男坊、ここで名前が分かってしまいました。島には900余りの人が住んでいますが、みな顔見知りであるようです。「ふく○」のおかみさんが腕利きの海女さんであるということも、教えてもらいました。
 この後、歩いて民宿まで帰ってから夕食。地元の魚介類や野菜がふんだんに並ぶ、素朴ながらも実に豪華なものでした。ビールももらって、ゆっくりといただきます。最高に幸せ。満腹して、食事をとる部屋から客室に戻ると、きょうは朝からあまり睡眠もとらずに動き回ったこともあり、疲れがどっと出て眠くなってきました。まだ午後8時半くらいでしたが、とりあえず布団にもぐりこみます。それからしばらくしてでした。
 バタン!
 客室の扉が開いたかと思うと、コー○ロー君が勢いよく部屋に入ってきました。半分夢見心地の私は、もうろうと見つめます。
 「あの、カメラ……」
 どうも、もっとカメラがいじってみたかったようなのです。でもごめんね。私は今夜はもう相手はできない状態です。そして、あしたも早く出発しなければなりません。ほんと悪いけど、このまま寝かせといて。
    ◇
 翌朝は起きると、強風はすでにおさまっており、スカッとするような五月晴れでした。私はこの気持ちのいい朝、飯盛からではなく本村まで歩いていって、そこからフェリーに乗ることにしました。朝食を終えた後、荷物をまとめて歩き出します。民宿をから道路へ出てしばらく行ったところで、後ろから声がかかりました。
 「バイバーイ」
 私は振り返りました。朝の光の中、おかみさんと○ータロー君が、民宿の前でにこやかに手を振っていました。


小値賀島 Ojikajima

 「小値賀が僕を呼んでいる……」
 それは、公私にわたり腹の立つことが続き、すさんだ気持ちを旅に紛らわしていた2007年が終わって、2008年へと移行して1か月余りたったころでした。ネットサーフィンをしているうちに、成り行きで小値賀町のサイトに行き当たった私は、そのときなぜかそんな感じがしました。
 本当に理由は分かりません。五島列島の北(一応所属は平戸諸島)に小値賀という島があるのは知っていましたが、周囲は57.3kmもあり、歩いて回るには少々大きすぎる島です。それに、季節はまだ寒い盛りの2月半ばです。それでもそのとき、なぜかそういう気がしたのです。天気予報を調べると、悪くなさそうな様子でしたので、数日後、福岡の天神バスセンターを午前6時20分に出る朝一番の佐世保行き高速バスに乗って、小値賀へと出かけました。
 佐世保港から高速船に乗り、午前10時半すぎにたどりついた小値賀島。港から堤防の上を少し歩いて島の中心地区・笛吹に出ると、そこには商店が立ち並び、結構開けた街並みが広がっていました。約3000人が住むというだけのことはあります。メインストリートには、船の到着に合わせてひっきりなしに軽自動車が行きかっており、私がふだん離島に期待しているのどかな雰囲気からは、かなりかけはなれた光景です。
 「なんか、求めていたものと違う気がするのだけど……」
 そう思いながらも通りを少し歩いて、小値賀町役場の結構立派な庁舎の斜め前にある民宿「ち○せ」にたどりつき、案内された4畳半の小さな部屋に荷物を置きました。
 ちょっと休憩してから、午前11時30分ごろに民宿を出て、島巡りへと歩き出します。しかし、一眼レフカメラと三脚を抱えたこの姿は、どうも開けた街並みの中では浮いている気がします。若干きまりの悪さを感じながらも、まずはまっすぐ北上。しばらく歩くと向こうから、制服を着た女子高生らしい4人組が歩いてきて、私を見てちょっといたずらっぽい笑顔を浮かべたかと思うと、やや控えめな声で「こんにちは」と、声をかけてきました。私も笑って、「あ、どうもこんにちは」と返します。でも何か、声をかけてきた少女は含みのあるような顔をしていたような。この格好を笑われていたような気がしないこともありません。
 少女たちとすれ違ってすぐ、日本名松100選にも入っている「姫の松原」のマツ並木に差し掛かりました。道の両側に、300年以上大切にはぐくまれてきたという大きなマツの木が立ち並んでいます。またこのあたりは島の文教地区になっており、小学校、中学校、そして高校の、なかなか立派な校舎とグラウンドとが目に入りました。さっきの少女たちも、高校からお昼ご飯か何かで、一時帰宅の途中だったのでしょうか。
 マツ並木を抜けると、すぐに島北部の柳地区に出ました。島を南から北へ、中央部を縦断してきたことになります。港の場所を確認してから、「牛注意」という交通標識(?)も立つ道を抜け、ひとしきり歩いて「柿の浜海水浴場」へ。ここには青緑色をした美しい海が広がっており、それほど広くはないものの、白い砂浜との取り合わせには素晴らしいものがありました。2月という季節はずれ。人影はもちろん、足跡1つありません。天気はやや雲が多いものの、時折太陽も顔を出し、この最も寒いはずの時期にしては少し暖かめです。さわやかな風の吹きぬける海辺を、じっくりと独占することができました。
 「やっぱり、来て正解だったのかな」
 昨年以来すさみきっていた気持ちを、美しい風景が癒していくようでした。
 柳地区に戻り、納島に立ち寄ってから、島一周道路の西半分を回って、笛吹地区に戻りました。何かあっけなく戻れた気がします。この島は周囲57.3kmといいますが、島の幹線道路が海辺からはかなり内側に巡らされているせいか、意外と簡単に半周できたようです。大きさの割に、歩くのにそんなに難儀しない島であることが分かりました。
 
小値賀の道から 
小値賀島から斑島へ向かう道の途中にて。
無人島・古路島(中央奥)と乙子島(その左)も見える
 
 帰り着いた民宿では、午後6時すぎから1階の広間で食事となりました。仕事で来ているらしい4人の中年男性の一団が、1つの食卓を囲んでいます。1人で来ている私が就いた食卓には、向かいにこの宿の主人、左手におかみさんが座りました。ビールを頼み、宿のご主人といろいろ話しているうち、ジャージを来た10代半ばくらいの女の子がやって来て、おかみさんの隣にちょこんと座りました。ここの娘さんかな……と思ったら、宿の主人が言いました。
 「ほれ、お客さんにごあいさつなさい。お客さん、この子たちが歩いているのに出会うたろう?」
 女の子は、ちょっと恥ずかしげに微笑んでいました。思い出しました。島を歩き始めてまもなく、「姫の松原」へと向かう道の途中で出会って、あいさつしてきた4人組の女子高生の1人です。
 「きょううちに泊まるお客さんがいると聞いていたので、この人かなと思ったんですよ」
 ちょっと照れた、純朴そうな、控えめな言葉。いかにも島の女の子という感じです。自分が泊まる宿の娘さんと、思わぬうちに出会っていたものでした。ちょっとした偶然。そして、その偶然はさらに続いていきました。
 おかみさんが、ふと思い出したように、
 「そういえば、きょうはそこ、斜めにある町役場の奥の町民ホールで、講演会がある日なんだけど。お客さん、島の魅力を訪ね歩いているのであれば、こういうものに興味がおありなんじゃないですか?」
と言って、奥から1枚のチラシを目の前に持ってきたのです。
 そこには、「日本人より日本の『美』を知っている東洋文化研究家 アレックス・カー氏講演会 〜島の宝物と観光事業〜」とありました。T○S系のテレビ番組「情熱○陸」でも紹介された、日本の古民家再生事業などを手がけているアメリカ人だそうです。午後6時半から番組の上映や主催者あいさつがあり、午後7時10分から本人の講演ということになっています。偶然にも、こんな催しがある日に小値賀に来ていたものです。
 「やっぱり、小値賀が僕を呼んでいたのか……」
 何かの縁です。これはやはり行くべきでしょう。歓談の繰り広げられる居心地のいい食卓、ビールの大瓶も気持ちよくほぼ空けてしまいました。もう少しここで過ごしたかったのですが、せっかくの機会だし……という思いが勝りました。
 「やっぱりちょっと講演会、行ってきます」
 そう言って午後7時すぎに席を立って、すぐ向かいにある町民ホールまで出かけました。会場は、聴講客で結構ぎっしり。ざっと見た感じ200人以上はいるでしょうか。報道関係者とおぼしき姿も見えます。後ろの席しかすでに残っていなかったので、中央、後ろから2番目の列の席に座ります。
 プログラムの進行は若干遅れているらしく、講演はまだで、演壇の奥のスクリーンには、ドキュメンタリーやニュース特集が映し出されていました。それらの番組によると、長崎や平戸に加え、この小値賀島を組み入れてUSAの高校生を招いた修学旅行のコースが、USAの財団から1位の評価を受けたといいます。島の良さ、USAの少年少女たちにも分かってもらえるようです。
 予定時刻からは少し遅れた午後7時半ごろ、アレックス・カー氏が演壇に立ち、講演がスタートしました。カー氏は、通訳をはさまない流暢な日本語で、自身が日本の伝統文化に魅せられる原体験となった徳島・祖谷地方の暮らしの美しさから説き起こし、現在取り組んでいる古民家保全事業などを、諄々と穏やかに語っていきました。
 ホールにしみわたる優しい声。ただ、私は睡眠時間1時間半でこの島にやって来て、1日中歩き回ったうえに、さきほど夕食をたらふく食べたばかり。アルコールまで十分に入っている状態です。カー氏の声はいつしか子守唄となり、私は不覚にも、最後のほうで眠りに陥ってしまい、肝心のクライマックスは聞けずじまいとなってしまいました。
    ◇
 1夜明け、民宿「ちと○」の朝食の席には、カー氏の講演を聞くために平戸からやって来たという60代くらいの夫婦連れの姿がありました。子供時代を過ごしたという平戸に戻って、武家屋敷庭園の保存活動に取り組んでいるのだそうです。このご夫妻は、2か月半ほど後に私が平戸を訪れた際、ちょうど関東からバラの専門家を招いての「平戸ミステリーローズツアー」なる調査会をやっており、私も偶然参加させてもらう運びになりました。
 また。小値賀島を引き揚げるアレックス・カー氏一行と、帰りの高速船で一緒になってしまいました。カー氏とは港の待合室で言葉を交わし、到着した佐世保で別れたものの、市内の佐世保バーガー店でまた出くわして、何かの縁だからと名刺など交換するという運びになりました。前夜の講演会で眠ってしまったことは、言いませんでしたが。
 ともあれ、「小値賀が僕を呼んでいる……」こう感じた私の感覚は、おそらく、きっと、間違いなく、正しいものだったのです。

 ▼小値賀町ウェブサイト http://www.ojika.net/


斑島 Madarashima

 斑島は、小値賀島の北西に“付属”している、周囲5.6kmの島です。1978年に、全長290メートルの「斑大橋」が開通して、「母島」たる小値賀島と連結されました。今では、小値○交通の路線バスもこの島に立ち寄っています。
 この島の見所といえば、なんといっても国指定天然記念物の「ポットホール(甌穴)」です。玄武岩の深さ3メートルの穴に直径50cmの黒い玉石が入っており、波とともに岩の上で転がって、ますます丸く磨きのかかったものになっていきます。その規模は、世界第2位を誇るといいます。小値賀島に1泊した次の日、このポットホールを見に、朝から歩いて斑大橋を渡っていきました。
 斑島の集落へたどりつき、表示板の案内に従ってポットホールがあるという方向に歩いていくと、やがて広々とした海沿いの草地に出ました。2月でしたので草は茶色かったものの、なかなかふかふかしていていい感じです。冷たい海風もさわやかなこの草地の先、白波がくだける岩場との境目に、「玉石大明神」と書かれた鳥居と、「天然記念物玉石甌穴」と刻まれた石柱とが立っていました。
 この辺りの風景を写真に収めた後、ポットホールを見物しようと、岩場へ乗り込みます。岩の上には観光用の小道が造成されており、歩きやすく整備されています。しかし、道はしばらく進むと岩に突き当たって終わっており、どこに目指すポットホールがあるのやらよく分かりません。
 「あれ、どこだ?」
 見つからないままうろうろしていると、しばらくしてジャージを着た体育会系的な2人の青年が岩場に現れました。
 「あのぉ〜、ポットホールはどこですかね?」
 「すいません。私も見つけられないんですよ。このへんにあるはずなのですが」
 青年たちもポットホールを見に車でここまで乗り付けてきたものの、最後の最後になってある場所が分からなくて当惑しているようです。一緒になって、このへん一帯をきょろきょろと探し回りました。
 そのうちふと、小道の終点近くにある岩の1つに、ごく小さな標識らしきものがあるのが、私の目に留まりました。
 「あれは……ひょっとして……」
 黒い岩に突き刺さっている幅10cm、高さ5cmほどの小さな金属製のプレート。これが、ポットホールの目印なのかも。さびて岩の色のなかに埋没しており、表面には何も書かれていませんが、かつてはこれに表示板か何か貼り付けてあったのかもしれません。その標識の示す先を見てみます。
 「あ、ここだ。きっとこの隙間だ」
 岩と岩の間、奥深いところをに目をやり、こらしてみます。暗がりの中に、波にぬれて黒光りする大きめの玉石が転がっているのが見てとれました。
  
ポットホール 
斑島のポットホール。潮に洗われ黒光りする玉石
 
 「あ、あった。ありましたよ」
 青年2人にも知らせてやります。どうやら全員、「玉石大明神」ご本尊との対面がかないました。


納島 Noshima

 私はピーナッツが大好きです。ピーナッツだけでなく、ナッツ類全般に目がありません。小値賀島を訪れる計画を立てた際、その北に、落花生の生産で有名な小さな島が“付属”していると知って、これはぜひ立ち寄ってみようと心に決めました。
 その納島は、小値賀島・柳地区の北東に浮かぶ、周囲5.2kmの島です。標高66.2メートルの火山島と22.9メートルの小火山島が結合して成り立っているといいます。
 「はて。うちの島に、何か用かの?」
 小値賀島・柳港と納島を結んでいる小さな渡船「さ○かい」に乗り込むと、乗り合わせたお年寄り男性が、いぶかしげに私に尋ねてきました。
 「あ、落花生の産地として有名な島だと聞いたので、上陸して写真など撮ろうかと思っているのですよ……けどまだ2月ですし、ピーナッツの栽培が始まるのはまだですよね?」
 「ピーナッツは、4月の下旬から5月のゴールデンウィークのころに植えて、8月下旬から9月上旬に収穫するな。今は植わっとらんよ。種もみの準備の季節じゃ」
 やはり、ピーナッツが栽培されているところを見るには、時期が早かったようです。このおじいさんに、小値賀島はなかなか大きな島で、歩いてくる途中に通り過ぎた「姫の松原」の文教地区には、小中学校だけでなく高校まで建っていたのに少々驚いたという話をすると、
 「その高校も、昔は1学年に何クラスかあったが、今は1クラスしかなか。島から若い人がいなくなってしもうての。納島も、今は31人しかおらんて」
と語ってくれました。
 ほんの5分ほどで、船は納島へと到着。波止場へ降り立つと、そこにはなかなか見事なアコウの木の群落がありました。案内板も立っており、そこには
 「納島には昭和61年現在、21戸92人が暮らしており……」
などと記されています。おじいさんの話によると、2008年2月現在では31人。20年あまりで、人口は3分の1になってしまったわけです。過疎地ではよく耳にする話とはいえ、なんとも寂しい限りです。
 納島を歩き始めると、これだけ人が減っているということで、あちこちで廃屋らしき家が散見されました。ほかに、中小のため池もところどころで目に付きました。落花生その他を作る農業用水を、これで確保しているようです。
 しばらく歩くと、何か小さなモニュメントのようなものが、目の前に建っていました。半ば壊れたプレートに、「開校記念 1963.3」という字が刻まれています。背後にはそこそこの敷地が広がっており、倉庫のような横長の建物、それにもはや座席のないブランコと鉄棒とがたっています。どうも、学校の跡地であるようです。帰ってから、私の持っている資料で調べると、「小値賀小学校納島分校は昭和46年に廃校になった」とありました。昭和46年は1971年、つまりこの学校に子供たちの歓声が響いていたのは、わずか8年間だけだったようなのです。
 
廃校跡 
小値賀小学校納島分校跡。開校記念のモニュメントが寂しくたたずむ
 
 廃屋に廃校舎と、物悲しい風景が続きましたが、もう少し歩いてみると、耕運機できっちり掘り返されて、作物を植える下準備をしている畑がたくさん目に入りました。そして、そんな畑に熱心に施肥を行っている島民の姿も見られました。人口減少が止まらない小さな島にも巡りゆく季節。春は、もうすぐなのです。
    ◇
 納島特産のピーナッツは、小値賀港のターミナルなどで袋詰めにされて売られています。1袋500円(消費税抜き)と安くはないのですが、大きくて香ばしい粒がぎっしりと詰まっています。売店の人に聞くと、持って帰って喜ばれる、ここで一押しのお土産品だということでした。


福江島 Fukuejima

 福江島は、面積100平方km超、長崎港の西海上100kmに浮かび、2万6000余りの人が暮らす五島列島の主島です。2008年の6月下旬、梅雨の晴れ間を縫って、初めて足を踏み入れました。
 とはいっても、このときの目的地は、福江港からさらに船で行く離島・黄島でしたので、到着したその日、福江島には港のターミナルにいただけでした。翌日、黄島からの帰りも、民宿の渡船に乗せてもらって、岩礁の釣り人を拾いつつ、福江港の南にある塩津港に着き、そこからまた止めてあった民宿の車で、鬼岳を左手に見つつ、海沿いの道を進んで福江港まで送ってもらったのでした。あとは長崎港までフェリーで帰るだけでした。
 というわけで、数々の教会や城跡、武家屋敷といった福江島の数々の見所は、全く見ていません。あしからず。
 ただ、五島は讃岐、稲庭と並ぶ日本三大うどんの産地です。港のターミナルの食堂のメニューにも、やはりありました。黄島に渡る前、ここで腹ごしらえに「うどん定食」を頼んだところ、うどんとご飯、みそ汁、そしてアジのフライとがセットになったものが運ばれてきました。五島うどんと、夏にかけてが旬というおそらく五島近海でとれたアジ、どちらも港の食堂とは思えないレベルの味わいで、私は少しばかりでもこの地の食文化をかじることができた気になりました。

 ▼五島市観光協会 http://www.gotokanko.jp/


黄島 Oshima

 「黄島の洞窟の中には、観音像(聖観世音菩薩)が祀られており、この像を祀るに至った由来は、次のような言い伝えがある。(中略)明治6年旧7月9日、この洞窟に安置したといわれ、(中略)現在は、毎年旧暦の1月17日にお供え物や奉納旗を立て、島民及び島外からも信者が集まり、洞窟内で祈願祭を行なっている」(五島市観光協会のウェブサイトより)
    ◇
 梅雨の晴れ間を縫って、6月下旬のある日、下五島・黄島を訪れた私でしたが、こういうものがあるということは全く知らずに、この周囲6.5kmの火山島に上陸していました。
 「島一番の見所は、観音様のある洞窟よ。ただ、そこは奥が深くて、相当歩かないといけない。暗いから、懐中電灯がないと行き着けんな。わしのところにゃ今、残念ながらライトはないんじゃ。民宿から借りてくるといいがな」
 島を歩き出してすぐ、集落で出会った60代くらいの男性が、そう教えてくれました。ここで初めて洞窟の存在を知った私。早速民宿にとって返し、おかみさんから結構本格的な大型の懐中電灯を借りて、観音洞へと向かいます。
 島をぐるりと回る道を南側へ進み、舗装が途切れたところから左折して、木立を抜けて海側へ出ると、「黄島溶岩トンネル」と書かれた解説板が立っていました。設置されていたロープをつたいつつ、ここから岩場へと下りていくと、その先に洞窟がぽっかりと口を開けていました。その入り口には、なにやら仏様のレリーフが2体まつられており、赤いのぼりも立てられています。
 「観音様というのは、これのことかな」
 洞窟の中でなく、入り口にあるので、何となく疑問には思いましたが、とりあえず写真に収めてから、借りてきたライトをともし、仏像の背後に広がる暗がりの中へと踏み込んでみます。湿っぽい洞窟で、ところどころで天井からぽたぽたと水がしたたっていました。少し進むと、もう真っ暗です。天井も低くなっており、体をかがめながら前進していったところ、足元がびちゃっといいました。照らしてみると、かなり大きな水たまりです。避けて通れない大きさなので、意を決して水をはねながら突っ切っていくと、どうやら少し天井が高くなっているところに出ました。窮屈な体勢から身を起こして、楽になります。もう水たまりもありません。しかし、少し行ったところで、前方には壁がそそりたってしまい、照らしても岩しか見えなくなりました。
 「あ、ここで行き止まりか」
 結構進みましたが、どうやらここでおしまいのようです。やれやれ。ここでいったん洞窟の入り口まで引き返すことにして、不要であることが分かった三脚とリュックは置いて、身軽になります。再び洞窟に突入し、再度この地点まで達してから、暗闇の中ストロボをたいて、この辺りのなにがしかを写しました。
 ちょっとした探検を終え、洞窟を後にしてから、島内をもう少し歩き、夕方になって民宿へと戻ります。夕食の席には、1週間ほど前から釣りに来ているという50歳くらいの宿泊客がおり、ここの渡し船の船長さんだというたくましい男性も一緒でした。新鮮な魚料理を食しながら、私はきょう観音洞まで行ってきたことを話します。
 「あの洞窟の奥にある観音様は、そりゃ霊験あらかたじゃぞ……」
 船長さんが、語り始めました。あれ、洞窟の奥は、石壁で行き止まりになっていたはずでは……。私は奥で石壁に突き当たって、引き返してきた旨を告げました。
 「あ、そりゃ奥まで行っていないがな。あれは壁じゃなくて、上っていくことができるがな。少し急角度で上ってから、また緩やかになり、その奥に観音様がすえられておるよ」
 なんと、洞窟はまだ先があったのです。きょうは終点までたどりついておらず、無駄足になっていたとは。これはショック。あすまた、再チャレンジしなければなりません。
    ◇
 というわけで黄島2日目の朝、再び観音洞へと挑むことにしました。民宿のおかみさんが、きのうの懐中電灯に加え、足元がぬれるからと、長靴も貸してくれました。親切。これをはいて出かけます。
 やって来た黄島溶岩トンネル、きのう同様に頭は低くして突入していきますが、きのうとは異なり、水たまりにはかまわず、長靴で水をはね飛ばして進んでいきます。やがて、きのう壁と思い込んで引き返した地点にまで達しました。暗がりを照らしてよく見てみると、左側に岩の切れ間があり、ここから急角度で上っていくことができるようです。先にはぽつん、ぽつんと、上にろうそくを立てた跡のある空き缶が置いてありました。島の人たちがが観音様に詣でるときには、ここに明かりを置いて行く手を照らしているのでしょう。
 しばらく上ったら再び傾斜はゆるくなって、その先にワゴンのような形をした祭壇が見えました。手前には、石造りの手水場もあります。天井からぽたぽたと水が落ちてきており、自動的に清水がたまっていくようです。ひしゃくも3個ほど置いてあり、ここで手を清めて、祭壇の観音像に向かいます。2日がかりで、やっとご対面がかないました。
 
観音像 
黄島溶岩トンネルの奥にまつられている観音像
 
 ストロボをたいて写真を撮ったあと、闇の中で財布をさぐったところ、1円玉が出てきましたので、これを供えて願い事をしました。この観音様は、霊験あらかただという話でしたが、けちな参拝者にはどれほど報いてくれるのかは定かでありません。


高島 Takashima

 高島は、長崎市の沖に浮かぶ、周囲6.4kmの島です。ここを訪れたのは、長崎市が旧正月を迎え、ランタンフェスティバルに突入していた2007年の2月でした。この時期は、本来なら寒風吹きすさぶ季節のはずなのですが、地球温暖化が急速に進む中、この日はよく晴れていて、4月か5月並みにまで気温が上昇した暑い日でした。
 この島は、かつて炭鉱で栄えた歴史があり、その栄華の跡は、港近くに建つ石炭資料館に展示されています。また島内では、炭鉱従業員のために使われていた集合住宅を、今でもたくさん目にすることができます。
 わずかに3時間あまりのごく短い滞在の中で、この小さな歴史ある島は、私にその多様な側面を見せてくれたような気がします。以下、それぞれの場面ごとに分けて、記していきます。
phase1:人工ビーチ
 高島港に上陸すると、すぐに石炭資料館がありました。ここを見学した後、島の海岸線沿いの道を反時計回りに歩いていきます。最近長崎市に編入されたこの島は、道路や信号などの設備がなかなか立派です。しばらく歩いたところで、海岸を少し掘り込んで護岸工事をして作られたような、人工の海水浴場に出ました。きょうがいくら暑いとはいっても、まったくの季節はずれなので、砂浜で遊んでいる人はさすがにいませんが、帽子と手袋をしたおばさんが1人、ごみを掃除していました。ごみをかき集めながら、次第にこちらのほうへ近づいてきます。
 「お掃除ですか。朝から大変ですね」
 「そうなんよ。毎日しないと、すぐごみでいっぱいになってしまうからね」
 聞けば、海岸を掃除する仕事を請け負っていて、かれこれもう5年になるとか。掃除は毎日行わないと、漂着ごみがたまってしまい、10日もたつと砂浜一面を埋めてしまうほどだといいます。漂着ごみからは、注射針などの医療廃棄物がひんぱんに見つかり、1日20本ほども流れ着いたりするそうです。長崎市やお隣の伊王島から来るものが多いということですが、中にははるばる外国から流れ着くものも結構あるといいます。日本の島々および本土の津々浦々は、多かれ少なかれ漂着ごみには悩まされていますが、この小さな島は、それが特に著しいようです。なんともやりきれない話です。
 おばさん、大変でしょうけど頑張ってね。
phase2:南風泊漁港
 海水浴場の先には、飛島という小島を橋で連結した海釣り公園がありました。ただきょうは休みで、連結橋の門は閉まっており、かぎがかけられています。通過して先へ進むと、島の漁港・南風泊に出ました。一角には、グリーンハウスのような外観の養殖プラントが立ち並んでいます。私が通りかかったこのとき、ちょうどここで働く人たちが仕事にかかる時間帯だったようです。道を横切って養殖プラントへと向かう作業着姿のおじさんおばさん3人とはち合わせし、ちょっと目が合います。すると、「見学していっていいよ」と声をかけてきてくれました。
 プラント内に入ると、中には数多くの円形の固定水槽があり、ヒラメの稚魚や成魚、あるいはオコゼ、カサゴ、フグなどが、その中を泳ぎまわっていました。
 「ヒラメは成長が早いから、養殖に取り組んでいるところはいっぱいあるけんど、オコゼやカサゴを養殖しているところは珍しいよ。大きくなるまで何年もかかるけな」
 
養殖ハウス 
養殖プールのかたわらで、稚魚をより分ける漁業者
 
 おじさんおばさんは、たくさんの稚魚の入った小ぶりの水槽を運んできて、その中の稚魚たちを、すくい網ですくい、別の小さな水槽へと分け移していく仕事を始めました。すくい網の大きさによって、稚魚を1匹1匹選別しているのだそうです。名人芸のようにひょいひょいと、次々とすくって選別していきます。
 ここの水槽で元気に泳ぐ魚たち。やがてはわれわれの食卓に上るのでありましょう。
phase3:○峰商店
 グラバー別邸跡を通り、島の舗装道路をさらに進むと、やがて右手の海上に、有名な端島が見えてきました。晴れた海上にくっきりと見て取れる端島は、なるほどその別名の通り、軍艦が浮かんでいるような姿です。その左には、やはり石炭の小島であった中島も見えます。冬なのに暑い日、照りつける太陽の下でこのへんに差し掛かったところで、道の左手に小さなお店があるのに気づきました。ここが、船の乗り場にあった観光パンフレットに載っていた島のお菓子屋「丸○商店」さんでした。やっているのかな……と思いながら店の中に入り、「ごめんください」と呼びかけてみると、中からおばさんが1人出てきました。 パンフレットにも写っている、この店を切り盛りしている人でしょう。
 特製というもなかは、1個140円。あまり和菓子の好きではない私ですが、職場へのお土産あたりにちょうどいいかと考え、7個購入することにします。非常に狭くて、それでいてがらんとした感じのするこのお店、出入り口そばに、アイスクリームのボックスがあるのに気がつきました。のぞき込んでみると、チューブ入りのかき氷「コーヒーボンボン」がたくさん入っていました。これもパンフレットに載っていたものです。もなかと同じく、これもこの店の特製なのでしょうか。
 「あ、よければ1個あげるがね」
 島のお店は、親切です。とにかく暑い日でしたので、ありがたい申し出でした。感謝してここを後にし、端島を横目にボンボンをすすりながら、さらに歩みを進めることにしました。
phase4:権現山展望台
 歩き続けているうちにどうやら、島のハイライト・権現山展望台へと続いているらしき上りの石段を見つけました。路傍には、菜の花が黄色く咲き誇っており、石段を鮮やかに彩っています。花に飾られた石段を上っていくと……道がループになっているような感じで、途中で結構大回りしてしまいましたが、なんとか島の神社と、さらに上にあった展望台へとたどりつきました。晴れ渡った空の下、島を一望。石炭で栄えたこの島、途中に畑は見なかった感じで、農業はやっていないのかと思ってしまいましたが、見下ろした港の近くには、トマト作りのグリーンハウスが整然と立ち並んでいるのが目に入りました。
   ◇
 (翌日の職場にて。同僚のK藤氏)「僕、和菓子好きなんですけど、このもなか、相当いけますね。どこで買ってきたんですか?」


 
 ▼長崎県庁の島紹介ページ「ながさきの【しま】」 
http://www.pref.nagasaki.jp/sima/index.html


[先頭に戻る]
広告 [PR]ヒートテック  転職支援 わけあり商品 無料 チャットレディ ブログ blog