山口の離島記
the Records of Island Visits in Yamaguchi
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柱島 Hashirajima
岩国沖26kmに浮かぶ柱島群島。柱島本島は、その中心となる周囲8.5km、面積3.12平方キロ・メートルの島です。中世の「村上水軍」以来、水軍・海軍にゆかりのある島で、この水域に停泊していた旧日本海軍の艦隊も、俗に柱島艦隊と呼ばれていました(かといって、この島に軍港があったわけではありません)。ちょうど60年前、第2次世界大戦中に、沖合で停泊中になぞの爆沈を遂げた旧日本海軍の戦艦「陸奥」の乗組員の慰霊碑なども建っているといい、
それだけに、私はこの島に行ってみようという気になって、10年近く住んだ北九州を離れる前の2003年7月、足を延ばしてみることとしました。
この夏は、本当に天候不順な夏でした。柱島へ向かうその日も、7月も終わりの方だというのにまだ梅雨が明けていず、出がけから船に乗るころまで、断続的に小雨が降っているような状態でした。
柱島への船は、そう便数が多くありません。岩国新港を午後3時30分の便に乗って、40分足らずで柱島へ到着。島の漁港では、旅館の看板が何軒も並んでおり、私が宿をとった○本旅館も、船着場のすぐ目と鼻の先にありました。経営者のおばさんが入り口で待っていてくれ、よう来なさったと迎え、部屋まで案内してくれました。旅館は2階建て、きょうの宿泊客は、私1人のようです。
「いやぁー。しかし、ここは何もない島でなぁ」
おばさんが言います。
「まあ、それがいいんじゃないですか。広島の方からとか、釣り客が来るんじゃないですか?」
「いやぁー。それが、船賃が結構高いでな(注:大人片道1420円)。いまは大体、車でいける屋代島(周防大島)の方へ行ってしまうんよ」
漁港に何軒も旅館が並んでいる島ですが、現在の稼働率はかなり低いようでした。
雨も少し収まっていたので、夕食の前に少し出かけます。南の方へ向かう道を歩き、賀茂神社(島の神社にしては相当立派)、さらに先にある浦庄の浜の方へ出ます。「陸奥」乗組員の英霊碑の近くでは、船で来たらしい、家族連れのキャンプ客がいるのを見かけました。
適当にぶらついた後、旅館に戻り夕食。メニューは魚づくし、家庭料理の趣にあふれるものでした。食べ終わって、入浴を済ませ、あとは部屋でのんびり。外ではまた雨が降り始めたようで、激しく雨音が響いてきました。
テレビの天気予報を見ると、四国からの電波が入っているらしく、愛媛の天気をやっています。きのう北九州で見てきた天気予報によると、あしたは晴れるはずだったのですが、この予報では曇りに変わっていました。ちょっと心配です。
さて翌朝。昨夜からの雨はどうやら上がっていて、一面に薄い雲がかかっているものの、それを貫いて日差しが差し込んできています。ひと安心。どうやら少し夏の島らしい雰囲気になってきました。朝食の後、旅館に荷物を残して、まずは島の北側へ向かう道を歩きます。海沿いの道を進んでいくと、やがて右手に長い砂浜が現れました。島尻の浜と呼ばれる浜のようです。海水浴には絶好の場所、絶好の雰囲気なのですが、人気は全くありません。
何かもったいない感じもします。
島の北部へと向かう道。
長い長い砂浜が、道に沿って続いている
浜沿いの道はやがて左に折れ、さらにしばらく浜辺を進むと、岩場になって終わっていました。
しばらく岩場でゆっくりした後、引き返し、今度は途中から山の手の方の道を歩いて漁港へ戻ります。ちょっと疲れたので、いったん旅館に寄ります。夏の心地よい風の吹き抜ける部屋の中で、1時間ほど昼寝しました。
その後、再始動。もう一度山の手の方の道へ入ります。漁港にあった表示板によると、中世に活躍した「村上水軍」の柱島城跡へと達する小道があるはずなのですが、いろいろ探して歩いたものの、結局見つけられずじまいでした。あきらめて、きのう1度足を運んだ浦庄の浜の方へ足を向けます。「陸奥」の英霊碑、きょうは付近にはキャンプ客らしい家族連れの姿は見えません。堤防に腰掛け、浜辺を見つめます。
おや! 三角形になっている浜辺の先端、潮がやや引いた感じのところに、鳥の大群がずらりと並んでいるではありませんか。どうもカモメのようです。間近で見たくなり、驚かさないようにそろり、そろりと前進し、近づきます。持ってきていた最大の焦点距離である100mmのレンズでカメラに収めながら。シャッターを切りながら、もう少し、もう少し……。
けどやはり、10メートルくらいのところまで近づいたところで、カモメたちは一斉に飛び立ってしまいました。
屋代島 Yashirojima
山口県東部、岩国市と柳井市の中間あたりに位置する屋代島。俗に周防大島とも言う、面積128.31平方キロ・メートルの大きな島です。民俗学者・宮本常一の出身地としても有名です。本土とは橋がかかっていて、簡単に上陸することができます。
この島に関しては、2002年1月に狐氏と浮島へ向かう途中、JR大畠駅からローカルバスに乗って通過しただけで、特に何もしたわけではありません。あしからず。バスを降りて歩いたのも、浮島への船が出る土居港前の
停留所周辺だけでした。
浮島 Ukashima
屋代島(周防大島)・土居港から船で行く周囲6.8kmの島・浮島。ここを訪れたのは、2002年も明けたばかりの1月6日のことでした。行くきっかけは、その数日前にさかのぼります。台湾・金門島から帰還したばかりの私は、その素晴らしい思い出の余韻にまだ浸っている最中でした、そこへ。某島マニアから電話がかかってきたのです。彼(狐氏)は、現在住んでいる山口県和木町から、1週間後には千葉県市原市へ引っ越すことになっていました。しばらく2人で行動することもできなくなる
ことでしょうし、金門で島の良さというものをなんとなく感じてきていた私は、1も2もなく日帰りでの島旅に行くことに同意してしまいました。どこへ行くかは狐氏に一任した結果、この浮島ということになりました。
早朝、まだ暗いうちに自宅を出発。小倉駅から電車を乗り継いで、午前10時17分に山陽本線・大畠駅に到着。一足先に来ていた狐氏と合流し、ローカルバスに乗って周防大島・土居港へ。ローカルバスらしく、運賃は相当に高めでした。ここから船で浮島へと向かいます。土居港から出航した船、真冬の海風が吹きつける甲板に立って周りを見てみると、冬の弱い日差しを浴びてきらきらと光る瀬戸内海は、えも言われぬ美しさがありました。
光る波を切り裂いて、船は一路浮島へと向かっていきました。
浮島には3つの集落があります。江浦、楽江と2つの集落を過ぎ、船が最後にたどりつく樽見集落で、私と狐氏は下船しました。結構大きくて近代的な住宅も見受けられた集落を抜け、アップダウンの割と激しい面積2.29平方キロの島を歩き始めます。例によって、ところどころで立ち止まり、わき道に入って写真を撮りながら。私は、所有しているズームレンズ2本にカビがはえてしまい、金門から帰った後、「カメラのド○」へオーバーホールに出していたため、100ミリマクロレンズ1本の勝負でした。写真機マニアの狐氏は、
例によって何機もの本体と何本ものレンズを持ってきています。そのうちの1本、単焦点のレンズを装着してのぞいた瀬戸内海は、逆光の中きらきらと光って、とても美しく見えました。
ところが、写真を撮っているうちに、私のカメラは挙動が少しおかしくなりました。1度シャッターを押すと、絞りが絞られたままになって、元に戻りません。おかげで、ファインダーの中がとても暗くなります。かと思ったら、突然正常に戻ったりします。ズームレンズ2本がオーバーホール中ですが、この残った100ミリマクロと、念のため本体(キ○ノンEOS-kiss)も、点検に出さなければならなくなったようです(なんてこったい)。
そんな中で気づきました。ほぼ1週間前、金門島・昔果山の風獅爺を見つけて訪れたとき、写真を撮ろうとかがんだ足元の草むらに、とげとげが付いていて衣類や靴にくっついてくる草の実がたくさんあったのですが、それがカメラをくるんだタオルにまだ少しくっついていることを。全部取り除いたはずなのに、しぶとく残っていたのです、今度こそ全部引きはがして踏みつけました。しかし、もし生きているものがあって、ここで繁殖を始めたら、私が種の輸入の犯人ということになってしまうかもしれません。まあ、気候も違いますし、繁殖することはないとは思いますが。
そうこうしているうちに島を半周し、先刻船で通り過ぎた江浦集落にたどりつきました。商店でパンと飲み物を買い、漁港の堤に腰掛けつつ一息入れます。冬の波止場にをうろつく、所在なげなネコなどを見ながら。
江浦を離れ、再び歩き始めます。畑をよぎっていく道や、先ほどと同じようにアップダウンの激しい山道のような道を抜けて、楽江の集落にたどり着きました。これで、浮島の3つの集落にはすべて足を運んだことになります。楽江から樽見への道は歩いていませんので、島1周には少し足りませんが、結構もういい時間になってきたので、私と狐氏は、帰りの船はこの集落から乗ることにしました。楽江の船着場は、島の学校の隣にあります。まだ冬休みで人影の見えない学校のブランコに
乗ったりしながら時間を過ごすうちに、冬の太陽はもはや沈む寸前までに傾いていき、船が来るころには相当に暗くなっていました。
楽江集落にある島の小学校。
船着き場も目と鼻の先
船に乗り、再び土居港に戻ります。そのころには、日はとっぷりと暮れていました。そして、今来た方角を振り返ると、もはや夜空に変わる寸前の濃い藍色、そこにかすかに残る光をバックに、漆黒の島影が浮き上がっていました。そしてその上には、小さな星たちがきらきらと輝いていたのです。
祝島 Iwaishima
山口県柳井市の柳井港から船に乗ること1時間あまり、上関町に属する祝島があります。上関町、およびこの祝島は近年、中○電力による原発建設問題で話題に上ることが多くなっています。そんなこととは関係なく、友人の島マニア(S谷氏)から、島に残る石積みの練り塀が味わい深いということを聞き、また、島の地図を見てみるに、島の北西にある小祝島の位置といい、全体の形状が、私が2000年暮れに訪れて非常に気に入ってしまった台湾支配下・金門島と非常に似通っていることに心ひかれ、一度訪れてみようという気になりました。
2003年の2月、連休がもらえたので、これを利用して行こうと、島の民宿「くに○ろ」に予約を入れました。ところが、出発の3日前になって、私はたちの悪い風邪にかかってしまい、このときはキャンセルせざるを得ませんでした。ついていません。そういえば、祝島に似ていると思った金門島に初めて行こうとしたときも、台湾に着いてからあきらめざるを得なくなってしまいましたっけ。
以後しばらく連休がとれず、いつ行けるやらと思っていたとき、今度は突然行けることになってしまいました。同年5月のゴールデンウィーク、私は例年通り3日間の休みがとれ、3日あると何となく欲が出るもので、だいたい台湾か韓国といった近隣の国まで足を延ばしています。2003年は、韓国に行こうと思って、3連休初日の5月8日、博多港を朝早く出発する高速船「ビート○」に乗り込みました。ところが、この日は雨が少し降っていて、風も強い日でした。何度も乗ったことのある「○ートル」ですが、この日は博多湾を出ると、今まで経験したこともないくらい激しく揺れました。揺れは本当にひどいもので、早起きして睡眠不足状態の私も
眠ることさえままなりませんでした。これはとてもプサンに着くまでの3時間もたないなと思っていると、出航して40分後、船内放送でプサン行きを取りやめ、博多港に引き返す旨が伝えられました。激烈な揺れの前に、私はがっかりしたというより、「やっぱりだめだったか」という感じでした。
その日はすぐ小倉へ引き返して、「ビ○トル」の切符を買った旅行代理店でで切符を払い戻してもらった後、ふてくされて家へ戻りました。さて、韓国行きは失敗した。しかし、天気予報によると、あした以降の天気は良さそうだ。連休の残り2日間、どうしたものか……と少し思案したところ、「そうだ、祝島だ!」という考えに至りました。すぐに電話を取り、「く○ひろ」に予約を入れます。あしたの朝行きますという急な連絡でしたが、「どうぞ。お待ちしています」との返事。運命は決まりました。
翌朝、前日とはうって変わった快晴の中、午前10時40分着の船で祝島に上陸すると、港には夫婦で「○にひろ」を経営しているおばあさんが迎えに来ていました。
「有水さんというのは、あんたかの」
「あ、そうです。どうも、お世話になります」
「どうぞ。よういらっしゃいました」
おばあさんは、石積みの練り塀が並ぶ島の路地を抜け、「くにひ○」まで案内してくれました。たどりついた民宿は割ときれい。案内された2階の部屋も、広々としていて、気持ちの良い部屋でした。おばあさんがすぐにお茶を出してくれ、ここで出がけに買ってきたコンビニ弁当を食します。いつもの習性で、あっという間にぱくついてしまいましたが、食べ終わってお茶をすすると、何となくのんびりとした雰囲気。本来せっかちな私ですが、今回は珍しく1泊できる旅行。きのうからの怒濤のような予定の転回を忘れ、少しくつろぐことができました。
とはいっても、そうそうゆっくりしてばかりもいられません。小1時間ほど休んでから「くに○ろ」を離れ、カメラと三脚を持って周囲12.4kmのこの島を探検に出かけます。まずは、今来た港のほうへと足を向けます。のどかな島の昼、もうしばらくで正午になるという時間帯、港内には水辺で戯れる親子や、お昼の散歩に出てきたらしいおじいさんが歩いていました。まずは手始めに、と数枚シャッターを切ったときでした、散歩中らしいおじいさんが、私に声をかけてきました。
「あんた、どこから来なすったかね」
「北九州からです。○にひろさんのところに泊まっています」
「写真を撮っていなさるの。島に興味がおありかな。うちまでちょっと来んかね」
ゆったりとしたしゃべり方をするおじいさんです。これがまた、ゆっくりと集落の路地へと入っていきました。後をついていきます。ほどなく、島の郵便局へたどりつき、おじいさんはその道をはさんだ向かいにある住宅へ入っていきました。私も上がらせてもらい、中へ入ります。すると、足を踏み入れた先は、非常に広い部屋になっていました。書籍やパソコンセットに加え、年代物の写真機や、大延ばしされた古い写真、それに土器の標本などが並べられていて、ちょっとした民俗学研究室といった風情です。おじいさんが、部屋の奥から缶コーヒーを2つ持ってきて、私に1缶を差し出してくれた後、ゆっくりとした調子で
語り始めました。
「この島は、今は(中○電力による)原発問題ばかりが話題にのぼるようじゃが、万葉集の時代やそれ以前の縄文・弥生からの歴史を持った、由緒ある島なんじゃ」
飾ってある写真は、戦前の島の様子や、4年に1度行われるという伝統行事「神舞」といった、歴史や文化を感じさせるものです。かつては隣にある郵便局の局長も務めていたというおじいさん――S村さんといいますが――は、島に生まれ、太平洋戦争時は広島で衛生兵をしていて、現在80歳になるという自分の経歴から始めて、祝島に関するもろもろのことを詳細に説明してくれました。不老不死の秘薬を求めて訪問したという伝説が日本各地に残っている古代中国・秦朝の始皇帝の使者・徐福も来たという言い伝え(ちなみに、S村さんは日本徐福学界の会員でもあるそうです)、遺跡からの出土品について、神舞の起源、
神舞の行われる島北部の三浦湾沿いにはかつて3軒の家があって「三浦3軒」と呼ばれたこと、島の出身者が下関に出て下関の漁業振興に尽力したこと、などなど。本格的に歩き始める前に、なかなか多岐にわたる予備知識を仕入れることができました。
1時間ちょっとおじゃましたS村邸を出て、改めて島を半時計回りに歩き始めます。まずは海沿いの道よりも少し内陸に入った、少し標高のある道へ入りました。石積みが施された段々畑の間を縫って進んでいきます。初夏の日差しの下で、畑仕事に精を出している島の人たちが散見されました。多少歩いたころで海沿いの道へ降り、さらに先へと進みます。祝島は周囲12kmある割と大きな島です。住宅が集まっていた地区を過ぎてからの海沿いの道はかなり単調で、歩いても歩いても大過ないような感じでした。そんな中、どうやら島北部の三浦湾に近づいたなというとき、水道の点検で島に来ていたらしい人たちの軽トラックが通りかかり、三浦湾にある水道施設の建物
のところまで運んでくれました。この辺は、先ほどのS村さんの話によるともう人は住んでいない区域らしいですが、集落の方では見られなかった棚田が作られていて、田植え作業をしている人がいました。祝島に隣接した無人島・小祝島も見え、何となくなかなかいい場所です。しばしとどまって風景を写真に収めました。
それからもう少し、三浦湾沿いの道を先へと進みます。この先、小祝島を間近に望む地点で道は終わりになっていて、この道を進んで島を1周することはできないと聞いています。その話の通りに、舗装道路はしばらく進んだところで堤防にさえぎられて終わりになり、その堤防を越えたところには岩場が続いていました。私は堤防を越え、岩場に踏み込んでさらに先へ進み、小祝島が本当に目と鼻の先になる地点までたどり着きました。
「もう、この辺でいいかな」
時刻はいつのまにか午後4時近く。島をほぼ4分の3周ほどしたこの地点で、ほぼ満足した私は切り上げることにしました。今来た岩場を引き返し、再び海岸沿いに設けられた単調な道を、時計回りに歩き出します。しばらく引き返したところで、またまた水道点検の人たちの軽トラックが通りかかり、またまた途中まで乗せていってくれました。
そして、午後5時前に集落へと戻ってきました。結構疲れが出てきましたが、残った体力を振り絞り、坂を上って高台へ入ります。思ったとおり、ここから見下ろす眺めはなかなかのものでした。しかし、やっぱり疲れました。ちょっと休みましょう。坂道を上った先にあった道のかたわらに腰掛け、傾いていく日と海上を通り過ぎる船などをぼーっと見入っていました。しばらくそうして呆けていると、農作業着姿、たきぎをしょったおばあさんが通りかかって、声を掛けてきました。
「兄ちゃん、疲れたかね」
「ええ、まあ。三浦の方まで歩いてきました。結構距離がありましたね。ところで、そのたきぎは何に使うんですか?」
「これかい? うちは今でも五右衛門ぶろじゃけの。たきぎをたかんといかんのよ」
「へぇ、五右衛門ぶろなんですか。島の家には今でも多いんですか?」
「そうでもなかよ。ほら、家の屋根に太陽熱温水器も見えるじゃろ。五右衛門ぶろなのは、今では半分ぐらいかの。でもあたしゃ、底の方からぽかぽかしてくるんで、五右衛門ぶろが好きなんよ。もっとも、ふろを改装するのに先立つもんがないだけのこっちゃけどね」
おばあさんはそう言ってにこやかに、私が今上ってきた坂を下っていきました。おばあさんが通り過ぎても、私はなおも立ち上がる気になれず、ぼーっと海を見続けました。そうして10分ほどたったころでしょうか。再びおばあさんが坂を登ってきました。さっきよりも軽装で、ほっかむりもとっていますが、どうもさっきのおばあさんのようです。
「あ、よかった。兄ちゃんまだいたのぅ。ほれ」
おばあさんは、ビニール袋に入った美しい「さくらんぼ」を、私に手渡してくれました。
「このさくらんぼな、うちの畑でとれたんよ。ちょっとすっぱいかしらんけど、農薬かかってないから、安心して食べられっで」
そう言い残して、再びにこやかに坂を下って引き揚げていきました。
おばあさんのくれたさくらんぼ、20個ほどもあったでしょうか。光沢のある赤色をしており、冷蔵庫に入れてあったのか、よく冷えています。口に含みます。確かに少しすっぱいですが、疲労した体に気持ちよくしみ行っていきました。
この後、もう児童がいなくなったという島の小学校を回ってから、「○にひろ」へと帰り着きました。そして、「くにひ○」のきれいに整えられたふろ(五右衛門ぶろではありません)、魚づくしの夕食が、ハードな1日を優しく締めくくってくれました。
◇
翌朝、島の2日目は、午前中に1日目とは逆方向、時計回りに島を歩きました。まずは岩場で大きなくらげなどを見た後、坂を登った少し高いところにある道を進みます。途中、散歩中らしいおじいさんが通りかかり、「この先を進むとびわがいっぱいあるで、それを写真に撮るとよいですよ」と教えてくれました。確かに、少し進むと、島特産のびわの果樹園でした。やはり石積みで固められた段々畑になっていて、びわの木々には、果実1つ1つに薄いみかん色の保護袋がかけられていて、
まるでみかん色の花が咲いているかのようです。この道は本当に、進んでも進んでも、びわの果樹園が出迎えてくれました。
入り込んだ「びわの道」も、適当なところで切り上げ、「く○ひろ」へ戻りました。午後0時半の船で島を出ることとしましょう。「くに○ろ」経営者のおばあさんと、ちょうど本土から戻ってきた息子さん(「くにひ○」のウェブサイトを作っているのはこの人らしい)においとまを告げ、この素晴らしき島を後にしました。
祝島南部の丘陵に広がるびわ園。
果実には保護のため1つ1つ黄色い袋がかぶせられ、まるで花が咲いているかのよう
◇
○国電力による原発問題は依然としてくすぶり、「祝島」の名もしばしばマスコミをにぎわせます。島内では何か所かに、「原発絶対反対」のスローガンも見られました。親切だった島民たちも、この問題をめぐって仲たがいしてしまったケースも多いと聞きます。歴史と伝統のある、こんな美しい島だというのに。島を後にするとき、この地の未来がよき方向に向かうことを、私は願わずにはいられませんでした。
God bless "Iwaishima"!
祝島に幸あれ。
牛島 Ushima
周囲の大部分を断崖に囲まれた島・牛島。全体がVの字形をしていて、周囲は11km。V字の左上の部分に定期船の発着する港があります。ここを訪れたのは、2002年も押し詰まった12月の下旬のことでした。
さほど大きな見所といったものはない島ですが、Vの字の右下あたりの場所に、平茂海岸という長さ900メートルの海岸があり、その対岸に長島(上関町)をはじめとする瀬戸内海の島々が見渡せるといいます。港からは歩いて45分かかるとのこと。朝1番の定期船で午前10時半ごろ島に入るとして、帰りに使える船は、午後0時30分と4時30分の2便しかありません。寒いこの時期に、この島で6時間も過ごす自信はありませんが、かといって2時間で引き揚げというのもせわしい話です。A型らしくどっちにするかは決めかねたまま、小倉から鈍行列車を乗り継いで
光市へと向かいました。
光駅で降り、そこからバスに乗ること30分で、牛島への船が発着する室積港です。予定通り午前10時の船に乗り、25分後、牛島に到着。早速攻略にかかります。
平茂海岸へと向かう島のメインルートは、とりあえず目の前に延びる道路だけのようです。途中見つけた売店で、昼食用に菓子パンを2つ買い、とことこと歩き始めました。2時間で切り上げるのであれば、急がなければなりません。どことなく、早足で……。島には、たいがいネコが住み着いています。牛島も例外ではなく、売店を出て少し過ぎたあたりで島のネコを目にしました。ところが、ここのネコは結構人懐っこいのです。2匹が、早足で歩く私の後を、とことこと小走りについてきました。ちょっと気になって立ち止まると、ネコたちも立ち止まります。
また歩き始めるとついてきます。そんなこんなで、島の小学校を過ぎ、山道に入る辺りまで、ゴロニャ〜となんとなくつきまとってきました。
墓地が目についた牛島の道。
途中には古びたあずまやも
切り立った断崖を持つ牛島、山道に入るとけっこうアップダウンがあり、かつどれがメインルートであるのかがはっきりしません。すぐにあった分かれ道、おそらく私は間違えたのでしょう、海岸に近い方のルートを選んだら、しばらく進むと海辺の断崖沿いで、上方から崩れた石が半ば通せんぼをしているという、とんでもない道に出てしまいました。しかし、結局は小さな島です。この外れ道もすぐにもとの道へと合流し、森の中をさらに進んでいくと、小高くなっている場所を越え、その先にまた海が見えました。断崖にはなっておらず、目的の海岸とみて間違いありません。
一目散に下っていきました。
「これが平茂海岸か」
左右に開けた海岸、季節柄茶色に変色した背の高い草などが茂っています。目の前に、長島らしき島も見えます。ほっとして座り込み、さっき買ってきた菓子パンをかじって、一休みしました。風は少し冷たいものの、日は少し照っていて、まずまずの冬の日です。このまま6時間滞在しようか……とも思いましたが、雲に少し日が隠れ、やっぱり少し寒いや、と感じたところで思い直しました。せわしい滞在でしたが、やっぱり午後0時半の船で引き揚げることとしましょう。立ち上がって、来たときのような早足で、たどってきた道を戻り始めました。船の出港15分ほど前には、
もとの牛島港へ帰り着けました。
来たときには気づきませんでしたが、港には牛島の案内図がありました。ちょっと眺めてみます。するとどうでしょう、私が先ほどたどり着いた平茂海岸だと思っていたところは、それよりもほんの少し北にある「榎畑」という名前のところであったようです。
「あら、違ったのかな? ま、いいか」
また引き返すのも何なので、このまま午後0時30分の便で室積港へ戻り、気を取り直して今度は海商通り、普賢寺、象鼻ヶ岬といった室積港周辺の観光スポットを歩きます。象鼻ヶ岬の高台からは、いまさっき歩いてきたばかりの牛島の姿が、きれいに見て取れました。
大津島 Otsujima
山口県徳山市沖に浮かぶ大津島。南北にひょろ長い周囲20.9kmのこの島は、太平洋戦争の末期、人間魚雷「回天」の基地が置かれたところです。ここは1995年の春、会社の人たちと計5人で、基地跡の記念館を目当てに訪れました。
春のよく晴れた日であったこと、渡船がすぐ東に浮かぶ黒髪島を経由してから到着したこと、記念館に「回天」隊員の生き残りの陽気な館長さんがいたこと、波止場に大きなクラゲがぷかぷかしていたこと……など断片的に覚えてはいるのですが、詳しいことは忘れてしまいました。いずれ再訪して、新たな印象を得ることにしましょう。
野島 Noshima
山口県の防府市の南東14.8kmに浮かぶ、周囲3.4kmの島・野島。防府は、狐氏が2001年当時住んでいた山口県和木町と、私の住んでいた北九州市小倉北区とのちょうど中間にあり、誘い合わせてJR防府駅で落ち合い、野島へと向かいました。
訪れたときは、ちょうどお盆の真っ最中。島は本土から家族を連れて帰省してきた人たちであふれ、どの家からも多くの人の楽しそうな気配が漂い、活気に満ちていました。夏祭りの後だったのでしょうか、島の広場では、
ちょうちんなどが片付けられずに、まだ残ったままでした。
この島の漁港及び人家は、片側に集中しています。反対側の海岸は見ることができません。行く道はあるのかもしれませんが、普段は行く人もなく、外来者には見つけられないようなものなのでしょう。島の片側しか動けず、ぐるっと一回りができないことに、
私は多少欲求不満気味でした。
この日、狐氏も私も、オカリナを持ってきていました。漁船が何艘か留まっている漁港の近くに腰を下ろしながら、夏の海風に吹かれつつ軽くオカリナを鳴らしていると、漁港で浮かび沈みしている人影があるのに気がつきました。
潜水パイプを着けた頭部が、時折海面に浮かんできたかと思うと、次の瞬間には足が上になって、器用にまた海へと潜っていきます。その身のこなしの軽さに、島の人の海への親しみようというものが感じられました。
一時して、その人影は海を離れ、岸へと上がってきました。Tシャツとスパッツを組み合わせたような独自の潜水着をまとっていたのは、まだ中学生くらいの小柄な女の子でした。女の子は、ポタポタと海水をしたたらせながら、
近くの家の中へと消えていきました。そしてその数分後、野島の重力に引かれて、手からこぼれおちてしまった私のオカリナも、粉々になってこの世から消えていったのです。
真夏の青空の下、活気のあるたたずまいを見せる野島の家々
ここには、小さいながらもキャンプ場も海水浴場もあって、水道やシャワー施設も完備されていました。磯釣りの適地でもあるそうです。防府からそれほど離れているわけではありませんし、アウトドアライフが好きな人にとっては、意外な穴場なのではないでしょうか。
見島 Mishima
萩沖に浮かぶ周囲17.5kmの見島は、萩商港から高速船で1時間10分ほどもかかる秘島であり、バードウォッチングの名所でもあります。ゴールデンウィークが終わったばかりの2002年の5月の半ば、めったにない連休があったので、行ってみることにしました。
しかし、出発当日は、雨風の強いひどい天気でした。高速船「おによう○」も動いているか心配でしたが、小倉駅から電話を掛けて聞いてみると、ちゃんと運航しているとのこと。とりあえず安心し、特急「い○かぜ」に乗って萩へと出かけました。萩の天気もやはり最悪でした。東萩駅で列車を降りて、2km足らずの先のところにある萩商港まで歩くのも一苦労でした。やっとのことで港までたどり着き、船の待合室でとりあえず落ち着きます。時間が来て乗り込んだ高速船「○にようず」は、
新しくてきれいな船でした。早起きした影響で眠かった私は、すいている船内の窓側の席に座り、すぐに寝入ってしまいました。
ところがです。船が動き出して4、50分たったころ、私は目を覚ましました。船が恐ろしく上下に揺れているのです。窓の外を見ると、高さ2メートルほどの大きな三角波が進行方向から次から次にやってくるではありませんか。船が波に乗り上げ、その波が崩れていくたびに、ものすごい縦揺れが襲ってくるのです。これは遊園地の絶叫マシン並みです。次から次に縦揺れが繰り返され、だんだん私も船酔いの症状が出てきました。窓の外にはなお、これでもか、これでもかといった具合に、次々と大きな波が見え、そのたびに「うわっ、よしてくれ」といった気分になります。天気が悪いのに
出発を強行したことを後悔する気持ちが、吐き気と共にわき上がってきました。
目が覚めてから30分ほども揺れ続けたでしょうか、「お○ようず」はやっと見島の本村港へ到着しました。ふらふらになりかけていた私、あと20分も揺られていたら、危ないところでした。私の泊まる旅館は、この本村地区から3、4km離れたところにあるもうひとつの集落・宇津にあり、「おによ○ず」もこれから寄港するのですが、これ以上船に乗っている気がしなかった私は、半ばふらつきながらここで降りて、土砂降りの天候の中、宇津地区までの道を歩き始めました。
港を出たすぐの道路沿いに、島内3か所ほどにあるという「笠石」を発見。雨に濡れた笠石をしげしげと眺めます。水が濁って1匹も見当たらなかったカメ生息地わきを通って本村の人里を抜け、離島振興法の影響でよく整備されている島内の道を進みます。土砂降りの上に風も強く、差していたデリケートな構造の傘は、途中で折れてしまいました。
新緑の美しい木々と棚田に囲まれた道を、ゆっくりと観賞する余裕もなく1時間少々で抜けて、宇津の旅館「北○屋」に到着したころには、すっかり濡れネズミになっていました。風雨は収まる様子もなく、これでは観光などできません。早めに夕食(さざえがおいしかった)をとった後は、私はふて寝してしまいました。
翌日は、霧雨状態でした。天気がいいわけではありませんが、昨日とは異なり、なんとか行動できそうです。荷物を持って、旅館の前の漁港へまず足を向けました。時刻は午前9時前。そこには、島の漁師さんが出ていて、軽トラックに乗った同僚と何やら言葉を交わしていました。同僚の人のトラックはしばらくして出発し、残った漁師さんと私は、何とはなしに会話を始めていました。
「昨日お着きなさったか。ひどい雨じゃったろう」
「ええ。本村から宇津まで歩く間に、びしょぬれになりました。でも、雨に煙る木々や棚田の緑がきれいでしたよ」
「この島は不思議な島でな。土壌が粘土質で、地表から40メートルくらいボーリングしても、水が塩辛くはならないんじゃよ。湧き水だけはたくさんあってな。それで人が住めるんじゃが」
「そうなんですか。きょうはここを午後2時半の船で帰らなければなりません。いまから島を一周できるでしょうか」
「一周はちょっと無理じゃな。まず観音崎へ行って、北灯台へ行って帰ってきて、もう少し時間がある程度じゃな」
放牧場で水を飲む見島牛。
後方に見える集落は宇津地区
一周はあきらめました。幸いこの後、天気は降り出すまでにはいたらず、美しい観音崎、山口県最北端・北灯台のある長尾の鼻を気持ちよく回ることができました。北灯台へ行く途中では、風景が開けるたびに珍しい鳥が迎えてくれ、棚田の田植え風景も目にすることができました。北灯台へたどり着いた後、再び宇津までとって返し、さらにまだ少し時間があったので、見島牛の放牧地などを横目に本村まで
歩き、本村から帰りの「お○ようず」に乗り込みました。昨日に較べれば天気は格段に良く、かつ「追い波」になる帰りの「おに○うず」。行きと異なり揺れはほとんど感じず、萩に着くまでゆっくり寝入っている私がいました。
青海島 Omijima
山口県の日本海側、やや西寄りの位置にある長門市・仙崎。かまぼこや詩人の金子みすずで有名な街です。青海島は、その仙崎からわずかに海を隔てた日本海に浮かんでいます。ほんの目と鼻の先であるためもちろん、現在では橋が架けられてつながっており、船に乗ることとなく周囲14.95kmの島に入っていくことができます。
ここを訪れたのは、確か1996年の冬、私にとって初めてとなる一眼レフカメラを買って、その「試し撃ち」を行っていたころでした。冷たい北風が吹きすさぶ、荒天の日だったのを覚えています。島の中央部のくびれた部分に行ってみると、日本海側の海岸では、すごい勢いで押し寄せる荒波が、真っ白なしぶきを上げて岩場に砕けていました。かなりの壮観で、これを撮影しに来たらしいアマチュアカメラマンにも2人会いました。
この後、私は島の東側、最も奥まったところにある通地区にある「くじら資料館」を訪ねました。そして、そこから仙崎方面に戻るバスを待っていると、先ほど出会ったアマチュアカメラマンの人が車で通りかかり、仙崎まで乗せていってくれました。
角島 Tsunoshima
西長門に広がるエメラルド色をした海に浮かぶ角島。白亜の大きな灯台がわりかし有名で、美しい自然が残り、いろいろな鳥もやって来ます。北九州や下関の子供たちには、手ごろなハイキングスポットでもあるようです。
この島を訪れることになったのは、ひょんなことからでした。大学を出て以来会っていなかった高校時代からの友人・S谷。1996年秋に行われた共通の友人・K原田(現姓H、中学時代からの友人)の結婚式で、彼と何年かぶりに再会しました。S谷は、もともとカルトな旅行が好きな人間ではあったのですが、しばらく見ない間に、彼は恐るべき「島マニア」へと進化を遂げていたのです。結婚式の会場で、彼から『狐日和』と銘打った同人小冊子を渡され、「旅日記の原稿を募集しているねん」と言われました(S谷のペンネーム・ハンドルネームも、この同人誌を
出し始めたころから「きつね」となったようです)。
このころ、台湾や韓国によく足を運ぶようになっていた私、それではと、結婚式から帰った後、行ってきたばかりの韓国旅行について文章を書き始めました(タイトル「漢江の軌跡」、このウェブサイトのここにあります)。原稿を書き始めたことを、その後北九州へ立ち寄った、やはり共通の友人・F田(ニトロ)に伝えたら、このことがニトロ氏からS谷へと伝えられ、ある日突然、私のところに電話がかかってきました。
「やあ。うわさによると、『狐日和』の原稿を書いているとか。どうもありがとう。ついでにどっか島に行かないか?」
この誘いに乗ってなんとなく、私も島旅に出かけることになってしまったのです。とはいっても、狐氏とは異なり、私はそうそう長い休暇など取れません。近場、1泊くらいでそこそこ楽しめそうな島は……と思って探した末に候補に上がったのが、この角島でした。割とメジャーで、渡船の本数も1日7便あります。かつ周囲は17.1kmと、歩いて回るには結構広い島なので、鹿児島や沖縄、あるいは小笠原の島々といった本物の離島を愛好する「ハード島ちゃん」である狐氏は、この選択に少々不満そうな感もありました。しかし、島旅などとは縁もゆかりもない
一般人の私が同行するとなれば、まずはこのくらいの島が妥当なところでしょう。話はまとまり、1997年の3月下旬、北九州にやって来た狐氏と一緒に、小倉から島へと出発しました。
特牛(「こっとい」と読みます)の港から船に乗り、角島へ。島の元山港では、宿泊先となる「つ○しま旅館」の人(女性、40歳くらい?)が、ライトバンで迎えに来てくれていました。狐氏は写真の大家でもあります。大きな三脚にカメラバッグという重装備のいでたち、私も愛機「キャノ○EOS・kiss」を買ったばかりで、詳しい使い方を教えてもらおうと、やはり三脚とカメラバッグを提げてきていました。
「あなた方は、雑誌の取材か何かでいらしたのでしょうか?」
旅館へ向かうライトバンの中で、旅館の人が聞きます。
「いえいえ、ただの観光客です」
すぐに旅館に着き、ここで一部の荷物を降ろします。旅館の人がさらに、島のもう1つの集落・尾山地区の先にある灯台公園まで送ってくれるといいます。
旅館の人「旅館は元山の方ですから、お間違えのないよう」
狐氏「どもども。まあ、島ですから、道に迷ったとしても、たかが知れてるとは思いますが」
私「道に迷っているうちに、特牛に出ちゃったりして」
旅館の人「そ、そんなことはあり得ない……」
本当に純朴で人の良さそうな女性でした。私と狐氏の会話についてくるのはハードだったかもしれません。
灯台公園、白く大きな灯台がそびえます。天気はまずまずで、やや雲がかかってはいるものの、青い空に映える美しい姿を拝むことができました。すぐ近くの海岸にはハマユウの群落、それに積み石遺構もあります。ハマユウ群落の沖合には、打ち捨てられさびついた姿の座礁船があり、望遠レンズで眺めると、鳥たちのすみかになっているのが観察できました。
灯台近くの浜辺に群生するハマユウ。
後方の海には廃船が浮かぶ
ここから海岸を通って、尾山集落へ。集落を抜けて、さらに島内をうろうろしました。海辺の方へと小さな道を入っていくと、よく棚田に突き当たりました。この島では、棚田と海、それにさっきの灯台を、一枚の写真に撮ることができるのです。これは、結構貴重な風景です。また、特牛、角島といった地名の示す通り、この島では牛がたくさん飼われています。小道を抜けて島の中央部・ややくびれた部分の北側の海岸に出たとき、放し飼いにされている大きな黒い牛と遭遇し、こちらをにらむその迫力に圧倒されたりもしました。
離島では、よくネコも見かけます。狐氏はネコと仲がいいのか、路傍で見つけたネコに「こっちおいで」をして、手なずけたりもしていました。
夕暮れ時になって、宿泊先の「つの○ま旅館」に帰還。ここは、いくつかの建物をつないだようなつくりで、私と狐氏の部屋として割り振られたのは、完全に他の建物から独立した離れのような部屋でした。隣接するより大きな建物では、旧日本軍の兵隊さんだった方々らしい老人たちの集いが開かれていて、若さはありませんでしたが、かなりにぎわっている様子でした。
さて、待望の食事が運ばれてきました。運ばれてきました、また運ばれてきました……私と狐氏は、その多さに目をむきました。大きな電気がまに入った大量の白ごはんくらいは当然にしても、ジンギスカンのような肉をこの場で焼くやつをメインディッシュに、肉、野菜、おそらくはこの辺でとれた海の幸……なんと、15品以上もあったような気がします。泊まっていたのが我々だけではなく、旧日本兵の老人たちがたくさんいたせいもあるとは思うのですが。旅には慣れている狐氏も、こんな豪華な夕食が出た旅館は初めてだと言っていました。
たらふく食べてから、別の棟にある風呂へ。すっかりいい気持ちになって帰ってくると、部屋は食事が片付けられて、布団が敷かれていました。きょうは早起きしています。歩き回っています。ごろんと横になると、目がとろ〜ん(そのまま朝まで)。
おいおい、食べてすぐ寝ると、牛になるぞ。
翌朝目覚めて、昼まで再び動き回った後に、この心地よい島を後にしました。
それから3年8か月後の2000年11月3日、私が行ったときにはまだ半分くらいの完成度だった「角島大橋」が開通し、角島は離島ではなくなりました。
蓋井島 Futaoijima
響灘に浮かぶ蓋井島。島名の由来は、神功皇后が三韓征伐のときに、この島の水の池と火の池の2つの井戸をフタで覆ったことに由来するそうです。下関市に所属しますが、中心市街地からは若干離れた、吉見漁港という小さな港から連絡船が出ています。
ここを訪れたのは2002年、晩秋から冬へと入ろうとする11月の末でした。前夜(といってももはや当日)午前3時半すぎ、早く寝つこうと睡眠薬代わりに焼酎を結構飲んでから眠りに入り、午前7時19分に起床、吉見漁港を午前9時40分発の船に間に合うように出かけました。渡船「蓋井丸」は、49トンと小さなもので、沖に乗り出したとたん、大して波が高いとも思えないのに、かなり上下に揺れました。35分で蓋井島漁港へ到着しましたが、私はこれだけで結構酔ってしまいました。きっと半分は寝る前の焼酎のせいだとは思いますが。
さて、島は非常に高低のある景観をしていました。S字形で周囲は10.4km、ほとんどを断崖絶壁に囲まれているということですが、その通りのようです。船がやって来た方角にも山がありますし(乞月山)、蓋井島漁港も、背後にはすぐ山が迫っていました。
早速、島を回ることとします。まずは左手の、灯台(蓋井島灯台)が見える山へと続く道へ。ここを上っていけば、非常に見晴らしのいい場所があるはずです。私は基本的に、メインディッシュを最後に残しておくような、ハイライトは最後にとっておきたいタイプの人間なのですが、この日は何となく、最初にこちらへと足が向いたのです。
坂を上り始めるその前に、ちょっとした岩場を見つけました。まずはここでしばらくくつろぎます。岩場にも断崖が迫っていて、その上方に灯台があるのが見えました。けっこう上らないと、そこまでたどり着けない感じです。岩場を出て、再び道を歩き始めます。途中から道路の舗装がなくなって、「やまどりの散歩道」と名づけられた自然の遊歩道になり、それをえっちらおっちら上っていくと、そのうち灯台へと到着しました。そこそこ大きな、美しい灯台でしたが、手前の方から柵で囲われていて、あまり近づくことができないのが難点でした。私がここへ来たとき、
私と同じようにキ○ノンのカメラを持った男性(後で知りましたが、71歳。福岡県中間市在住で、灯台巡りを楽しんでいるそうです)が先客として来ていて、灯台の写真を撮っていました。この日は少し雲が出ていて、背景が青空になっていないのが残念な感じです。
私の方が先に灯台から失礼し、少し道を戻って、「やまどりの散歩道」をさらに先へと進みます。森の中の道はここからかなり険しくなって、ふうふう言いながら上へ上へと歩を進めていきました。そしてたどり着きました。標高145メートルの金比羅山山頂の風車跡。高台に金比羅さんを祭った場所があり、その前にほんの少し、コンクリートで平地が設けられています。森を抜けてここへ足を踏み入れ、そこから足下を眺めてみました。
金比羅山の風車跡から見下ろした蓋井島
素晴らしい風景! 絶景と言ってよいでしょう。下界の蓋井島漁港が手にとるように見え、その先へと延びた岬にそびえる乞月山が、きれいな三角錐をしています。響灘をはさんだ対岸には、吉見地区らしき場所がくっきり見え、視線を右に動かせば、下関の中心部、さらには煙突の並ぶ北九州までのぞむことができます。そして、そのさらに右手には、六連島、馬島、少し離れて藍島の島影が浮かんでいます。六連島は小高く、馬島、藍島は空母のように平べったい姿。船が何隻か、日光を受けて輝く響灘をよぎっていくのも見えます。視界は180度もありませんでしたが、
すべてが美しく、かつ立体的な広がりを持った得がたい景色でした。
普通は冷たい11月の空気も、この日は割と暖かく、私はセーターを脱いで腰を下ろし、しばらくじっくりとこの中に浸っていました。さっき灯台で出会った人が遅れてやってきて、同じようにここでくつろいだ後、今度は私よりも先に立ち去っていきました。
この後、北部の鱶井湾や、東部のエミュー牧場などを経て島を1巡しました。なかなか見所の多い島で、着いてから帰りの船が出るまでの5時間足らずが、あっという間に感じられました。
六連島 Mutsurejima
六連島は、下関の港から船で20分という至近距離にある周囲3.9kmの小さな島です。下関市は、北九州市の一部と言われるほど北九州から近く、密接な関係を持っていますが、海の上においても、この六連島は、北九州市領の馬島の目と鼻の先に位置しています。
私が訪れたのは、2002年のよく晴れた春の日でした。石油タンク(日新タ○カー六連油槽所)からほど近い島の漁港に到着し、関門を行き来する船や釣り人たちを横目に見ながら、反時計回りにまず1周。島の細い道、その路傍は季節柄、小さな花々で彩られていました。ビニールハウスで栽培されている花き類も、
きれいでした。1周していったん漁港に戻ってきましたが、途中見落とした小さなスポットなどもあり、何となく物足りなかったので、今度は時計回りにもう1周しました。
坂の多い島です。さすがに2周もすると多少疲れてきましたので、再び漁港に戻ってきたところでひと休み。1時間ちょい後に出る次の船を待ちます。昼過ぎの漁港の岸では、漁師さんの一家らしい人たちが、干してあったらしい定置網を囲んでなにやら浮きなどをくくりつける作業をやっていました。やがて、
手分けして留めてあった小さな船への積み込みを始めました。大変そうだな……などと思いつつぼんやりと見ていると、大きな網の先端部を引きずって動かす仕事をしていた漁師のおばあさんが、声を掛けてきました。
石油タンクの見える漁港で、漁網の積み込み作業をする漁師さん一家
「なぁ、漁師の仕事も大変や思うやろ?」
「そうですね。街に住んでいる者としては、なかなか……」
多少の言葉を交わすうちに、いつしか私は腰掛けていた堤防から下りて、おばあさんの網を動かす仕事を手伝い始めていました。
「おぉ、すまんのう。手が汚れっで、こん手袋使いな」
軍手をはめ、おばあさんと呼吸を合わせ、網を少しずつたたみながらひきずって、船に近いところで作業している漁師一家の他のみなさんのところへ持っていきます。簡単に手伝ったところで私は作業をやめ、漁師一家の人が小さな船に巨大な定置網を積み込むのを、立ちながら見ていました。
どうやら作業も終わったころでした。
「あんた、ジュース飲んでくじゃろ。ちょい待ってな」
おばあさんが、思わぬ声をかけてくれました。
「いや、そんなつもりだったわけじゃ……」
当惑する私でしたが、しばらくすると、漁師一家の若奥さんが、人数分の「オ○ナミンC」を買ってきて、私にも1本を渡してくれました。
「気持ちがうれしかとよ、ほれ」
花咲く小さな島、春の昼下がりのことでした。
▼山口県作成の離島情報サイト「やまぐちの島々」 http://www.pref.yamaguchi.jp/gyosei/chiiki/island/index.htm
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